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第4話

 ババアはいつにも増して強烈な匂いを纏いながら、帰宅した俺の前に立った。  むせかえるような香水の香りは、クラスの女子から漂う若さの象徴のような瑞々しいものとは違い、小さい頃嗅いだ婆ちゃんの白粉のような匂いだった。臭くて仕方ない。 「純くん、健人お願いできるかしら」  相変わらず亀裂のように唇を歪ませながらババアは言う。どうやらまたデートに行くらしい。  最近俺は気付き始めた。今まで気付かなかった方がおかしい。こんなまだ昼の3時から親父とデートなどできるわけがない。この時間、親父はまだ働いているのだから。‥‥浮気されてやんの。 「ママもパパも、今日は泊まってくるから」  浮気相手とは昼間楽しみ、夜からは親父と落ち合うわけか。忙しいババアだな。  心の中で嘲笑していると、ババアの肉団子のような手がぬっと伸びてきて、俺の右手首に触れた。  指先で手首を撫でたかと思うと、肘から上にねっとりとなめくじのように這い上がってくる。それがシャツの袖の中に入り込もうとした瞬間、俺は思い切りその手を払い除けた。  ババアの亀裂がパックリ開く。それは底無し沼のように暗く恐ろしい穴だった。  気味が悪い。気持ち悪い。仮にも息子に対してまで色目を使うこのババアはなんなんだ。 「‥‥じゃあ、お願いね」  さっきまで撫でられていた腕に爪を立てていると、その横をババアがゆっくり通り過ぎていく。その間、俺はずっと息を止めていた。  俺はババアの目を見ることができない。どうしてだか、その不気味な口にばかり目が行ってしまう。ババアを思い出す時は、真っ赤な唇が宙に浮いてパクパクと餌を探し動き回っているという、そんな奇妙な光景ばかりが浮かんでしまう。もはや化け物だ。  ドアが閉まり鍵をかける音を聞いてから、また呼吸を始める。爪を立てていた腕をそのままガシガシと引っ掻きながらリビングに行くと、ソファで健人が寝ていた。今日は静かだと思ったら、こういうことか。  起きたらきっとまた、ママはー? と大泣きするのだろう。めんどくせえ。  すぐに踵を返し、足元に転がっていたエアコンのリモコンを拾い、冷えすぎていた部屋の冷房を切ってから家を出た。 ***  ファミレスと漫喫を渡り歩き、家に帰ったのは夜9時過ぎだった。  ドアを開けた瞬間、玄関に待ち伏せていた健人が猪のように突進してきた。 「ママー!」  奇跡の再会を果たしたかのように腰に抱きついてくる。しかし肉団子なババアとは明らかに違う骨張った俺の感触に、すぐさま健人は体を離した。 「兄、ちゃ‥‥。ママは?」  俺で悪かったな、と思いながら無視して靴を脱ぎ廊下を歩きリビングに入れば、むわっとした熱気に包まれる。ソファが引っ繰り返っているという、想像していた以上の惨状が広がっていることもさることながら、なんだこの熱気は。まさかあのままエアコンもつけずにいたのか?  床に散らばった漫画や菓子やオモチャや無意味にちぎられた新聞紙などを足で蹴散らしながらエアコンのリモコン探したが、結局見つからず、諦めて自室に入ると健人もそのあとを着いてくる。鞄を置き、汗で張りついていたシャツを脱ぎ、部屋着に着替えている間も、健人はずっと俺にババアの行方を聞いてくる。 「ママは‥‥? ママ、どこ行ったの?」  既に泣き腫らしたあとのような赤く腫れぼったい目にまた涙を溜め始めるもんだから、なぜか俺まで泣きたくなってきた。  あんなクソ豚によく懐けるなこいつは。バカみたいだ。おまけに兄貴は真夏に冷房を切った部屋に弟をひとりぼっちにするようなやつで。不憫でならないよ、と他人事のように思う。  ババアは親父とお泊まりだ、と言うと、健人は泣こうか泣くまいか迷っているかのようにまつ毛を震わせ、乱暴に目元を腕で擦り、結局泣いた。  素麺を作ってやると、健人はぐずりながらそれを啜った。ガキは数ある欲のうち何かひとつでも満たされればとりあえずは満足する生き物なのか、腹を満たした健人の顔からは既に涙は引いていた。  寝る頃になるとまたぐずり始めたが、うぜーから泣くな、と言うと割とすぐに泣き止んだ。その代わり、テコでも俺から離れようとしなくなった。懐かれた、そんな不吉な予感がざわざわと後頭部をくすぐる。  兄ちゃん一緒に寝よう、という健人のわがままに対し、俺にできたことといえば、「部屋片付けてリモコン見つけたらな」という交換条件を出すことだけだった。いい加減いろんなことにうんざりし始めていたとはいえ、断りもしない自分が少し心配になった。思ってた以上に疲れているのかもしれない。  しゃがみ込みせっせと部屋を片付けるその小さな背中を見ながら、ガキは単純だな、と思った。単純で、バカで、無力だ。

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