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第3話

     2  次期総帥である長男の怜人(れいと)から、「いい酒が手に入ったから、貴砺とふたりで飲みに来てください」と呼び出されて、凌は緊張していた。  これまでの経験上、わざわざ「貴砺とふたりで」と指定するということは、何か特別な話があるはずだから。  もしかしたら怜人夫妻のもとに産まれてくる子どもに関する、重要なことかもしれない。  彼らの子どもには特別な事情があり、凌が『劉人』として手を貸している。近頃、凌が頻繁に怜人の骨董相談に乗っているのは、そのことを一族の人々から隠すためのカモフラージュの意味合いが大きかった。  しかし訪れた怜人邸で本当に酒盛りが始まってしまい、これは一体どういうことかと凌は困惑している。  しかもいつもは応接室か骨董部屋に通されて畏まった対応をされるのに、今日はやけに落ち着いたリビングルームのような部屋で、絨毯の上に直座りして、座卓に並べられた料理や酒を銘々が勝手につまむという庶民スタイルだ。  塔眞家でこのようなフランクさは初めてだった。貴砺とふたりで自宅の食事でさえも基本的に前菜から始まるコース形式だから、塔眞家ではそれが普通だと思っていたのに。 「凌さん、どうしました? 遠慮せず食べてくださいよ」  怜人が穏やかに微笑む。よく見れば造作は貴砺とよく似ているが、表情や雰囲気が違いすぎて、兄弟だと言われなければ分からないだろう。  しかし怜人はこの穏やかな笑顔の下で容赦ない判断をする人だということを、凌はもう知っている。 「あ、はい。ありがとうございます。いただきます」  気を使わせては申し訳ないと、せっせと箸を動かした。けれど味がよく分からない。自覚以上に緊張しているのかもしれない。いつもはコース料理で緊張すると思っていたが、むしろその方が、形式通りに動けて助かっていたのでは。ルールがないと、どの料理に箸を伸ばせばいいかも迷ってしまう。 (自由って、選択の連続なんだな……)  思わず哲学的なことを考えてしまった。  隣の貴砺を窺うと、黙々と酒器を傾けている。このひとはいつだって泰然としている。  チラ、と視線を投げかけられて、鼓動が跳ねた。 「飲むか?」  にやりと思わせぶりに頬を上げて、酒器を差し出された。凌には飲めないと分かっているくせに、いたずらを仕掛けるみたいな表情がちょっと可愛い。 「『いい酒』だぞ」  その言葉にハッとした。もしかしてこの酒が、怜人が自分たちに振る舞いたかったものだろうか。  そういえば先ほど彼らの間で、酒に関するらしい横文字が飛び交っていたことを思い出す。おそらく地名や製造方法だろうと、まったく知識のない凌は黙って聞き流していた。 「凌さんは、プライベートでもあまり飲まないのですか?」 「嗜む程度にはいただくんですが、酔うと寝てしまうので……」 「眠いと言ってぐずる凌は、最高の愛らしさですよ」 「貴砺さんっ」  顔が熱くなって、思わず声を荒らげてしまった。すみません、と恥じ入ると、貴砺が声を上げて笑う。怜人もくすくすと肩を揺らし、「相変わらず仲睦まじいですね」と返事に困るコメントをした。 「ではいくつか持ち帰ってください。その方が贈り主も喜ぶでしょう」 「贈り主……?」 「ツヴェターエフ家です。息子たちが世話になったと、次期当主から」 「えっ」  次期当主といえば、あのエリク・ヴィクトロヴィチ・ツヴェターエフでは?  大丈夫なのかそれは。  実は先日、ロシア人の子どもとその親友である雪豹を、凌が香港の街で保護した。四歳児であるルーセニカと、お座りをした姿がルーセニカとほぼ同じくらいの大きさのシュエを、当初はただの迷子だと思っていたが……父親がなかなかの曲者だった。  浮世離れしているというか、視点が独特というか、とにかく掴みどころのない不思議な人なのだ。敵ではないが、あまり関わりたくない人物。そしてロシア版塔眞家とでもいうような、黒社会に大きな影響を及ぼす一族の次期当主だと判明した。彼は息子を介して、塔眞家と接触を図れたらラッキーと軽く考えていたらしい。  子どもたちの保護に加え、エリクから叩きつけられた骨董の挑戦状のせいで関わりを持ってしまったが、今後は警戒しようと思っている。  先のできごとは凌と貴砺、そしてツヴェターエフの間だけで終わったと思っていたのに、まさか怜人に贈り物をしていたなんて。次期当主同士のやりとりに発展していたと知って、血の気が引いた。 「申し訳ありません。わたくしの軽率な行動のせいで、塔眞家にご迷惑を……」 「迷惑どころか、凌さんのおかげで我々が優位に立てましたよ。今後が楽しみです」  にっ…こり。仏様のような慈悲深い笑みなのに、背筋が凍る。  これは追及してはいけない。凌は悟った。 「あ、えっと、その……あの、麗那(れな)さんのご体調はいかがですか?」  しまった。こんなタイミングで切り出すことではなかったのに。訪問する前からずっと気になっていたものだから、ついうっかり口から飛び出してしまった。  失言を悔いるが、もう遅い。出てしまった言葉は取り消せない。 (だって、出産予定日とっくに過ぎてるし……)  ずっと心配だった。『劉人』としていつでも駆けつけられるように心の準備をしていたが、貴砺があまりにもどっしりと構え続けているので、自分が浮足立ちすぎだろうかと反省したりもしていた。 「大事を取って休んでいます。ご挨拶できなくて申し訳ありません」 「いえ! とんでもないです。どうぞお大事になさってください」  他に言うべき言葉がみつからなくて、とてもおざなりになってしまった。内心で焦りまくるが、フォローが思いつかない。  微笑み続ける怜人、絶句して頬を引き攣らせている凌、淡々と杯を傾ける貴砺。……この状況をどうすれば打開できるのか。  貴砺に助けを求めようとしたが、それより先に、怜人が「ところで」と口を開く。 「凌さんは以前、貴砺が所持している骨董をすべてリストアップしてくださったのですよね?」 「はい。日本とアジアの陶磁器は詳細に記録して、専門外のお品は分かる範囲でですが」 「大変だったでしょう? 祖父のコレクションは膨大でしたから」  好事家だった彼らの祖父が集めた骨董は、すべて貴砺が受け継いだ。貴砺自身は骨董にまったく興味がなく、そのまま次世代に引き継ごうとしているのだが。 「整理し甲斐はありました。でも好きなことなので、夢中になってるうちに終わっていた感覚です」 「その間、私は完全放置でな」  クックッと喉で笑う貴砺に、あの頃は貴砺さんも忙しく飛び回っていたじゃないですか、と反論したいが、ここでは我慢する。貴砺も本気ではないのだろうし。 「凌さん、そのリストを見せてもらえますか?」  それは頼みだろうか、それとも命令だろうか。凌には判断できなかった。  ただ所有者はあくまで貴砺なので、視線で尋ねる。彼は愉快そうに口角を上げたまま、頷いてみせた。 「では、帰宅次第メールでお送りしますね」 「いえ。書面で頼みます。暗号化する必要はありませんが、密書扱いで」  怜人との間での密書扱いとは、他のものでカモフラージュした上で、水に溶ける紙にプリントしたものという意味だ。  それほど厳重にするということは、何か重大な理由があるのか。 「万が一、リストを手に入れたことが漏れたら、とうとう貴砺の所蔵品を横取りする気かと邪推されかねません」  苦笑する怜人に、なるほど、と凌も苦笑で返す。  怜人の骨董好きと、貴砺の無関心ぶりは、セットで内外に有名だ。 「承知しました。では明日にでもまたお届けに上がります」 「王(ワン)月林(ユエリン)にでも届けさせてくれたらいいですよ。本当の密書ではありませんから」 「……そうですか? ではお言葉に甘えて、そうさせていただきます」  王月林とは、貴砺の第一側近のことだ。  もとは怜人に仕えていたが、『劉宝』をめぐる後継者問題の時に貴砺のもとに異動した。  凌にとっては、上流階級のマナーを叩き込んでくれた恩師のような存在でもある。 「あの……もしかして何かお探しですか?」 「ええ、実は。凌さんには改めてお願いしようと思っていたのですが」 「どのようなお品ですか? 東京か香港のどちらにあるかくらいでしたら、今お答えできるかもしれません」 「すべて頭に入っているのですか?」 「大まかにです」 「それはすごい。あの膨大な量を」  褒められると恐縮してしまう。決して覚えようと努力したわけではないから。 「素敵なお品ばかりだったので、自然と記憶に残ってるだけなんです」 「凌さんは本当に骨董がお好きなのですね」 「はい」  反射的に深く頷いたら。 「やっと笑ってくれました」  怜人が頬を綻ばせる。それはさっきまでの完璧な笑みとは違っていた。  そして怜人の言葉で、凌は我知らず笑っていた自分に気づく。ようやく緊張がほぐれてきたかも……と思いきや。  突然、横から貴砺の手が伸びてきた。頬を指の腹で撫でられて、ビクーッと過剰反応してしまう。 「おまえのその愛らしい笑顔、たとえ次期総帥といえども見せてやるのは腹立たしい」 「っ!? なに言って……」 「惚気はよそでやりなさい、貴砺」  いつも対応に困る貴砺の独特の愛情表現を、怜人はスパッと斬り捨てた。さすがだ。 「では、凌さん。そのリストの中に、こんな記号が記されている骨董はありませんでしたか?」  怜人が差し出してきたメモ用紙を、座卓越しに受け取る。  そこには墨で不思議な絵が描かれていた。  極端にデフォルメされた人の顔のようにも、複雑な川の流れを写した地図のようにも、そのどちらでもないまったく違うものにも見える、人によって解釈が大きく分かれそうなほぼ左右対称の図。 「これは……記号ですか? 絵ではなく?」 「記号です」 「……記憶にないです。なんの記号ですか?」  その質問に対して、怜人は微笑みだけを返してきた。穏やかなのに、スッと色を消した静かな迫力。

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