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十八時を少し過ぎた頃、店には閉店の札が下げられていた。神社のカフェで商店街の外れという事もあるが、そもそも東京の片隅にある小さなこの町は、人出が多くない。自然と飲食店としては早めの店仕舞いとなった。この店自体、売上を目当てとしておらず、真斗(まこと)の、料理がしたい、という趣味の為に始めたので、それも理由の一つだろう。 「お疲れ。晩飯、ゼンの家でいいか?」 朝食は全員で、というのがルールだが、昼夜はそれぞれ仕事等がある為、バラバラだ。しかし、今日は比較的メンツが揃っているようだ。 「はい、俺も手伝います」 「サンキュ。じゃ、姫さん達を先ず連れて来てくれるか?俺は先に行って進めとくから」 駿(しゅん)は頷き店を出た。 アオは昼に帰って来てから、まだ元気が無い。様子を見る傍ら、おやつを持って行った時も、いつものように明るく振る舞っていたが、無理をしているのは明らかだった。どうしたら元気になってくれるんだろう。少しでも話してくれたら良いんだけど。 夏の十八時はまだ空は明るく、蝉も元気良く鳴いている。 吹く風が心地良いな、とそんな事を感じつつ家の方へ向かっていると、拝殿の階段に、一人腰掛けるアオを見つけた。 「アオちゃん?」 声を掛けつつ向かうと、アオは顔を上げ、それから、何とも言えないという表情で俯いてしまった。 「…どうした?どっか痛い?」 いつもと明らかに違う様子に、駿は心配になって隣に腰掛けた。アオは不安そうに駿を見上げ、それから黒いグローブの右手に視線を落とした。 「…駿こそ、痛かったでしょ。私の手は、人にも妖にも毒にしかならないから」 触れようとして手を引っ込めるアオに、駿は戸惑う。いつもは無邪気に自分に触れてくるアオが、躊躇って顔を伏せてしまうなんて。 「どうして?俺はそんな風に思った事ないよ」 「駿は優しいもの。他の皆はそうは思わないわ」 「他って?」 「…国の皆もそうよ。いくら力があったって、制御出来ないんじゃどうしようもないわ。それでも近づかなければ仕事は出来るし、生活も出来る。…近寄らなければ」 それはつまり、アオを恐れて誰も側に来ないという事だろうか。アオは駿を見上げ寂しそうに笑った。 「こんな風に近くに居てくれるのは、ムラサキやあなた達だけよ。…私、ゼンの強さに憧れていたの。ゼンのように恐れられても立派にありたいと思ったわ。人の世ならそれが出来るのかもと思ったけど…ダメね。人より力のある妖すら近寄らないのに、人の子の中で生きていくなんて無謀だった。私は隠れて生きていくのが運命なのね」 駿は掛ける言葉を失った。アオの体質は分かっていたし、能力を抑えきれない事も知っていた。けれど知っていただけだ、根本的な事、アオがどんな思いでいたかなんて考えた事はなかった。 「…俺達は違うよ。アオちゃんと手を握るのも怖くないし、もっと一緒の時間を過ごしたいと思ってるよ。それにほら!ゼンさんだって人に紛れているようで紛れていない生活を送ってるし、だから」 だからゼンと同じような生活、なんて、それはアオが言っている事と変わらない。駿は言葉を詰まらせ俯いた。 「…俺達以外にだって、分かってくれる人は居るはずだよ」 その気持ちは確かで嘘は無いが、今のアオには慰めにもならないかもしれない。 「ありがとう」 アオの言葉に顔を上げる。アオは笑っていたが、笑顔と呼ぶには遠いように思えた。例え中身が何百年も前に生まれた人生の先輩、というより最早先祖の域に達していようと、見た目は少女で、悩みに打ちのめされている姿は人と同じだ。だから駿はユキに恋をしたし、アオも放っておけない。アオはもう妹みたいに可愛い存在だ。だから駿はごく自然にアオの頭に触れた。驚く事に髪まで氷に触れているかのようだったが、それでもめげずに頭を撫でた。傷ついているアオを、これ以上傷つけたくなかった。アオはといえば、大きな目を更に見開いて驚いた顔をしている。 恐らく頭など、撫でられた事が無いのかもしれない。アオは暫しマジマジと駿を見つめていたが、やがて堪えきれないというように頬を緩ませ目元を潤ませた。まだ明るかった空は暗闇に呑まれようとしていたが、アオの表情は、そこだけ星々が煌めくように輝いて見えた。 だが、それは長くは続かなかった。 「え、」 アオが咄嗟に駿の手を払い、背を向けたからだ。 いくら幼く見えるからといって彼女は人生の大先輩、そもそも一国の王女様だ。そんなアオの頭を撫でるのは、さすがに失礼だったか。 「アオちゃ、」 「伏せて!」 駿が戸惑って声を掛けた途端、二人の体を突風が吹き付ける。その風の強さに、駿が思わず顔を背けた直後、バリンと鈍い音と同時に何かが後方へ飛んで行く。 「駿!アオ!」 遠くでユキの声が聞こえ、それとほぼ同時に風が治まった。 「妖、あれは…」 「な、何なんだ…アオちゃん怪我は!?」 アオが風が吹き付けた方角へ目を向ける傍ら、駿は何が起きたのか分からず困惑していたが、すぐにハッとした様子で、慌ててアオの正面へ回り込んだ。 アオの手には、いつの間にか作り上げられていたのか、盾のような氷の塊がある。それは一部が欠けており、先程鈍い音を立てて飛んで行ったのは、この盾の破片だろう。アオはその盾で駿の身を守ってくれたのだ。そしてその盾は、ただの分厚い氷ではない、咄嗟にとはいえ、妖からも恐れられる力を持つアオが造り出した物なのだから、丈夫なはず。それが割れてしまうなんて。 駿はその光景にゾッとして、無意識に膝を付きアオの両腕を掴む。 アオは、怪我は無いかと焦って心配しながら見上げる駿に、何より躊躇いなく触れるその手に、胸がいっぱいになる。けれど、きゅ、と唇を噛みしめ涙を呑み込んだ。アオは、恐れられても王女だ。今は、駿を守らなければいけない、その使命が先に立った。アオはそっと深呼吸をして、それから、駿が無傷だと分かったのだろう、安心したように微笑んだ。 「大丈夫よ」 「良かったー…っていうか、ありがとう守ってくれて」 「どうって事無いわ。私は駿が大好きだもの」 「あはは、俺もアオちゃん大好きだよ」 「ふふ」 アオは擽ったそうに笑い、それからくるりと振り返る。 「大丈夫だったみたいだな…良かった」 それから礼を言うユキに、アオは大袈裟に肩を落とし腰に手を当てた。 「もう、女の子に無茶させないでよね!」 「いやいや立派な勇姿でしたよ姫」 「ふふふ」 「…本当、ありがとう。助かった」 「ユキさん、」 今にも崩れ落ちそうなユキの姿に、駿は今やっと分かった気がする。自分が向き合っている危険に。 「アオ様!ご無事でしたか!」 ムラサキの声に、すっかり調子を取り戻したアオが振り返る。 「もう!遅かったじゃないの、ムラサ、」 「アオ様!」 アオの言葉を遮って、ムラサキはアオの体を抱き締めた。強く強くその存在を確かめるように、失うまいと願うように。 同族とは言え、アオの体質はムラサキにだって影響は出る。冷たい氷のような体を抱き締めているのだ、それも最高峰の力を宿す雪女の体は、突き刺すような、侵食されるような冷たさだ。強く抱きしめた分、ムラサキの頬や腕はみるみる内に赤く、青くなる。このままでは凍傷どころでは済まないのではと思う程。 駿はさすがに心配になったが、ユキに視線で制された。 「…大丈夫よ、ムラサキ。私はあなたより強いんだから」 「存じています、存じていますとも」 ぽろぽろ涙を零し始めるムラサキに、アオは困って、それから堪えきれず、涙を流した。 こんなにも心配して思ってくれる人が側に居る。今はそれだけで十分だと、アオはこれ以上ムラサキに負担を掛けるので抱き締め返せない自分の手を恨めしく思いながら、彼女にそっと心を寄り添わせた。 抱き返す腕が無くとも、ムラサキにはその思いが伝わっている。彼女はいつだって、アオの事を一番に考えてきたのだから。

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