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第17話

 加瀬(かせ)志津真(しづま)が目覚めると、柔らかで、甘い香りに気付いた。 (あれ?)    確か、リビングのソファーで寝入ってしまったと思ったが、なぜか自分のベッドにいる。  訝しく思いながら、身を起こした。周囲を見回すと、隣に居て当然のはずの恋人の姿が無い。  そこに気付くと、この香りの意味が忽ち理解できた。  期待を膨らませて志津真が起き上がるのと、恋人を起こしに来た威軍が寝室のドアを開けたのは、ほぼ同時だった。 「おはよ」  気怠い笑顔を添えて、志津真がそう言うと、きりりと身支度を整えた「アンドロイド」の威軍が、一分の隙も無い部下の態度で応じた。 「おはようございます。朝食の支度が出来ました」 「……」  何のリアクションも無く、ぶすっとしたまま志津真が威軍を見詰める。 「なんですか?」  冷ややかに問い返す威軍を、がっかりしたように志津真は肩を竦める。 「いや、今日は日曜やろ?朝からなんで…そんなんやねん。色気のない起こし方やな」  だらしない態度で、頭をガリガリと掻いて、志津真は不満げに威軍を睨み返した。 「なんやねん。昨日は、あんなに可愛かったのに…」 「夢でも見てたんじゃないですか」  ピリッと厳しく切り捨てるように言い、威軍はまるで軍隊にでも所属しているかのように、キビキビと身を翻した。 「ゆ、夢って…。厳しいなあ、ウェイウェイ」  1人で愚痴っていたが、聞く者がないのが分かると、仕方なく苦笑いをして、志津真は昨夜のステキな思い出が残るバスルームへと消えた。  今朝の作戦は、郎威軍の思い通りだった。  あんな一夜の後だ、今日は朝から甘い顔を見せようものなら、志津真に一日中ベッドの中に引きずり込まれて終わってしまうだろう。  確かに今日は日曜で仕事は休みだが、加瀬部長は出張の報告書をまとめて、オフィスへとメールで送る必要がある。その仕事をきちんと終わらせるのが、部下である郎威軍の義務だと思っている。  志津真がシャワーを終えて、身支度を整えて出てきたら、食事をさせ、午前中は報告書を作らせる。それから、昼食は外で済ませ、今週分の食料や日用品の買い出しに行く。  それだけ必要なことをきちんとこなして、その上で今夜と、明日の有休を堪能したいと威軍は思っていた。  だが、相手は加瀬部長だ。うかうかして、少しでも隙を見せれば、必ずそのままベッドに引き込まれる。そうなると今日のノルマは片付かず、明日の予定に支障が出るかもしれないのだ。そんなことは絶対にさせまいと威軍は固く心に決めている。  明日はせっかく平日に有休を取ったのだ。無駄に過ごすことなど出来ない。  明日の夜は、すでに決まっている。  外で夕食を終えたら、必ずその場で別れる。また明日、職場で会おうと、明るく微笑みあって、それぞれ帰路に着くのだ。  それまでしか、甘い恋人同士の時間はない。無駄の無いように、しっかりと計画を立て、やるべきことを確実に、正確にこなしていくのだ。威軍は固く決意していた。  几帳面な郎威軍の本日の予定は、きっちりと果たされねばならなかった。 「あ…、あ…、だめっ」  淫猥な声を上げながら、威軍は言葉とは裏腹に、物欲しげに腰を動かし、志津真を求めた。 「こんな…、こんな、の…」  立ったまま、強引に突き上げられ、威軍は夢中になって見悶えていた。  寝室から出てきた志津真はこざっぱりした様子で、まずは郎威軍のお眼鏡に適った。午前中は自宅で仕事を片付けるのだから、トレーナーとスウェットパンツというラフな姿なのは許容範囲だ。  欠伸をしながらダイニングテーブルに座った志津真に、まずはカップ1杯ずつ淹れられる日本製のドリップコーヒーをブラックで出す。中国にもインスタントコーヒーはあるが昔ながらの粉末がほとんどで、こんな風に1杯ずつ淹れられるドリップタイプは珍しい。もちろんこれも、志津真が日本から買ってきたものだ。 「ん~、エエ匂いや」  満足げに志津真が口に付けるのを確かめ、威軍はキッチンに戻った。そして、用意しておいたものを熱したフライパンに入れた。  ジュっと音がして、しばらくすると甘く、香ばしい香りが立ち込める。 「メイプルシロップ、多めにしてや」  壁の向こうから志津真の注文が聞こえるが、そんなことは既に威軍には想定済みだ。  表面をこんがりと、中をふんわりと火を通して、威軍の特製フレンチトーストが焼き上がった。  志津真が目覚めた時に感じた優しい香りは、威軍が玉子とミルクを混ぜた、フレンチトーストの卵液の匂いだった。威軍のフレンチトーストは、どこで習ったものなのか、ミルクに秘密がある。牛乳だけでなく、生クリームとコンデンスミルクを入れるのだ。そこにバニラエッセンスで甘い香りをつけ、それで砂糖を控えめにしている。最後に志津真好みの甘さは、ちゃんとカナダ産のメイプルシロップで調整する。 「お待たせしました」  まるでどこかのホテルの一流ギャルソンのように、きちんとした姿勢で威軍は給仕をした。 「完璧やな!」  幸せそうにニヤけた志津真が、そうして朝食を堪能していたのは、ほんの30分前の事だった。 「あっ…ん!」  奥深くまで突き上げられ、威軍は背筋を這い上る快感に耐えかねて、その麗身を仰け反らせた。 「ウェイ…、ウェイ…」  夢中になっている志津真も、耳元で譫言のように愛しい相手の名を繰り返す。それが甘くて、優し過ぎて、威軍はさらに身と心を震わせてしまう。  香り高いブラックコーヒーを飲み干し、甘いフレンチトーストを堪能した志津真は、先に朝食を済ませていた威軍に、せめて後片付けは任せろと言い出した。威軍としては、そんな暇があれば、サッサと報告書作りをして欲しいのだが、せっかくの申し出を無下に断るわけにもいかず、2人して狭いキッチンに並んだのだが、これが「アンドロイド」郎威軍の、致命的な誤算だった。 「バスルームの次は、キッチンでって…お約束やろ」 「は?」  油断していた威軍の背後に立つと、「優秀な」加瀬部長はテキパキと為すべきことをした。つまり、威軍の感じやすい首筋に唇を這わせ、両手でTシャツをたくし上げ、白くて美しい脇腹から、可哀想なほどに過敏な胸に愛撫をする。そして腰をグイと押し付け、何を欲しがっているかを威軍に知らしめたのだ。 「あ、ダ、ダメです!」  流されまいとして、「有能な」部下の郎威軍は逃げようとするが、相手は狡猾な加瀬部長だ。快感に弱い威軍は、あっと言う間に官能に呑み込まれてしまう。  午後からこのままで出かけられるようにと、外出用にネイビーのスリムパンツを穿いていた威軍だったのに、あっという間に脱がされてしまい、シンクを両手で掴んだまま、後ろに腰を付き出していた。 (よ、予定が…、計画が…、ノルマが…)  アンドロイドとの二つ名を欲しいままにする郎威軍であるのに、緻密に計算されていたはずの心づもりが、不心得者の加瀬志津真の前では、ガラガラと音を立てて崩れていくのだった。

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