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第19話

 あの頃は、加瀬(かせ)はまだ部長職ではなく、営業部第1班の主任だった。郎威軍(ラン・ウェイジュン)はそのチームの1番の新入りで、仕事を覚えるためにチーム内のベテランの(チェン)女史とペアを組んでいた。  第1班は、すでに中国国内でビジネスを展開し、実績を上げている一級企業を顧客として担当しているチームだった。  企業側も中国人社員がいたり、こちらでのビジネスに慣れた部署が多く、仕事としてはやり易い。ただ、それだけに動く予算が大きく、中国政府の介入などもあり失敗が許されないことが多い。  この時のクライアントは、日本でも若い女性に人気のある下着メーカーで、ベテランの陳さんが居るからと、主任の加瀬も当時の部長も安心して新人の郎威軍と組ませていた。  案件は、夏の涼感肌着のプロモーションで、商品の確認、販売網、マスコミへの広告展開、あらゆることが段取り通りに進んでいた。  だが、それはいきなり全面停止となってしまう。  涼感肌着は、まるで水着のようにカラフルなデザインで、下着として隠すだけでなく、チラ見せするのがオシャレです、というコンセプトだった。  若い男性である郎威軍の意見も時折求められるのだが、何をどう言えばいいのか、全く分からない。個人的には、下着なのだから見せる必要はないと思うのだが、クライアントの自信の商品にケチをつけるようなことが言えるはずがなかった。  だが、政府機関から新作プロモーションの全面停止指示が出たのも、まさにその点だった。  扇情的に下着を見せつけるような広告、及び販売は許可できない、というのが指導部署からの停止理由だった。  すでにモデルのポスター用写真の撮影も終わり、CMのロケ先も決まっていた。  陳女史はクライアントへの説明に追われ、郎威軍は指導部署との交渉にあたった。しかし、交渉は一向に進まない。  連日、山のような資料を抱え、政府の建物に通う郎威軍だったが、「下着が挑発的」の一言で相手にもされない。もともと下着の広告なのだから、下着を見せるのは当然だと主張してみるが、「挑発的で、不道徳」という点はどうしても押し切れない。  そんなある日、前日と同じように資料と、挨拶用の日本の煙草を2カートンを用意した郎威軍がオフィスを出ようとした時だった。 「ほな、ボチボチ、頑張ってる郎くんを、応援しに行こっかな~」  郎威軍の背中に、軽い口調で声が掛かった。 「え?主任?」  驚いて振り返った郎威軍の前に、外回りの準備を済ませた加瀬志津真が居た。 「加瀬くんは、担当外だろう?」  その時の部長は、日本で大手の広告代理店で働いていた日本人の風間さんだったが、加瀬主任の動向に気付いて訊ねる。 「あ、こっちの案件は昨日終わったんで。今、相棒の(ユー)安徳(アンディ)くんが報告書を仕上げてます~」  関西訛の日本語と、人好きのする笑顔で加瀬主任は答えた。 「あ、そ。そう言うことなら、新人のフォロー頼むね」  本来であれば、風間部長自らが新人教育を兼ねて政府機関まで同行してもいいはずだが、クライアントとの交渉ならともかく、政府関係の交渉が苦手な風間部長は、政府関係が得意な加瀬主任に任せた方が無難だと判断したのだ。 「ほな、行ってきますぅ~」  おどけた様子で、戸惑う郎威軍の肩に手を回し、加瀬は妙に楽しそうにエレベーターに向かった。 「で、相手は何やって?」  エレベーター内で二人きりになると、関西訛はそのままで、表情だけが変わって真剣に加瀬は郎威軍に聞きただした。 「今のところ、『下着が見えるのは挑発的で不道徳』の繰り返しです」 「出た、『挑発的』で『不道徳』!これまでにも何回かソレ聞いてるんやな~」  ニヤニヤしながら加瀬主任はそう言って、オフィスの前の通りでタクシーを捕まえた。  担当部署のオフィスに到着すると、いつもの郎威軍なら担当者を呼び出し、資料を並べてクライアントの意図を1から繰り返すだけだ。  けれど、加瀬主任は違った。 「郎くん、通訳は任せたし」  そっと耳元で囁かれ、なぜか威軍はドキッとした。 「(マオ)さん、います?」「茅先生在嗎?」  この案件の担当者は、張課長で、そのことは加瀬主任も知っているはずなのに、なぜ別人を呼び出すのか。疑問に思ったが、郎威軍は加瀬主任の話す言葉の同時通訳で精一杯で、余計なことを考える余裕はなかった。 「哈!好久不見了!(お!久しぶり)」  奥から現れた茅という人物は、小柄で貧相な、センスの無い眼鏡をかけた地味な中年男性だった。 「茅さん、ちょっと今回トラブってて」  一通りのことを、加瀬は茅氏に的確に要約して説明した。  加瀬の日本語を、郎威軍が中国語にして、それをじっくりと聞いてから茅氏は答える。  郎威軍は、通訳をしながら、それぞれの人物像を掴み始めていた。ぼんやりした中年にしか見えなかった茅氏だが、熱心に加瀬主任の話を聞く態度といい、郎威軍の言葉をしっかり吟味してから口を開く姿勢といい、かなり思慮深く、慎重な人間だと郎威軍は感じた。 〈じゃあ、ちょっと今から昼まで張課長と話してみるから…〉  茅氏がそう言うと、加瀬はここぞとばかりにニッとした。そして、部下の郎威軍に視線で合図を送った。それに気づいて、威軍は煙草の入った紙袋を加瀬に差し出す。 「これ、資料です」  真っ赤な嘘だが、加瀬は平然としている。そして、郎威軍には思いもつかないようなことを言い出した。 「そういうことなら、交渉は午後からになりますね。では、こちらでビジネスランチのセッティングをしておきます」 「え!」  思わず声を出した郎威軍だったが、慌てて茅氏に加瀬主任の言葉を伝える。 「好了~(いいね~)!」  嬉しそうに言って、茅氏は軽く右手を振りながら、元居たオフィスの奥の方へ去って行った。 「郎くん、すぐにメリディアンホテルのビジネスランチ予約して!」  にこやかに茅さんの背中を見守る風を装い、目の奥と声だけは真剣に加瀬主任は郎威軍に命じた。  言ってみれば、それだけの事だった。  高級なフレンチのビジネスランチの席で、いつもと同じように郎威軍は説明した。  するとどうだろう。これまで頑なにこちらの話を聞こうともしなかった張課長が、初めてこちらが出した妥協案に目を通してくれたのだ。  しかも、撮影済みのチラ見せの写真はそのまま使えることになり、キャッチコピーから「チラ見せ」という扇情的な言葉を削除するという条件で、ほぼ企画は通ってしまった。  後から聞くと、あの茅という人は、担当機関の代表者だったらしい。  オフィスに戻り、陳女史と風間部長に報告をしたのは郎威軍1人だった。加瀬は、ただ後ろで笑っているだけだった。

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