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第20話

「ありがとうございました」  退勤時間までに報告を終えた郎威軍は、珍しく定時で帰ることになった。 「お疲れ!今日は、よくやったな!」  今日はあれからずっと、同じ第1班の仲間以外にも、他の班や他の部署の人間からも褒められた。だが、それは自分の成果ではないと知っている郎威軍は、なんとなくスッキリしない。  ようやく、加瀬主任と2人になり、声を掛けるきっかけが出来た。真っすぐに主任を見て、郎威軍は丁寧に礼を言った。 「何が?」  きょとんとして、席に座った加瀬主任が見上げた。 「今日、加瀬主任のフォローが無ければ、交渉はまとまりませんでした」  そう言って、郎威軍はもう一度深々と頭を下げた。  就職して以来、互いに過去には何事も無かったような振りをして接してきた。こうして、きちんと顔を見て1対1で話すのは、入社以来、初めてかもしれなかった。 「俺が何したって?全部、君の努力やで、郎くん」  剽軽な態度で、人懐っこい笑顔で、柔らかい関西の訛で、加瀬志津真は、本当に自分は何もしていないかのように言った。 「私だけでは、交渉は進みませんでした。加瀬主任のおかげです」 「謙虚やな~、郎くんは」  明るく笑うと、加瀬はPCを閉じ、帰り仕度をした。 「ほな、郎くんにお礼してもらおうかな」 「なんですか?」  何を言われるのかと怪訝な表情になった郎威軍に、それを吹き飛ばすような、あっけらかんとした明るい笑顔で加瀬は言う。 「今から、晩御飯付き合ってもらおか?」  その屈託のない笑顔を、信じていい物かどうか、一瞬、郎威軍はためらう。  そんな郎威軍をどう思ったのか、立ち上がると、加瀬主任はリラックスさせようとして、軽く郎威軍の肩を叩き、そっと耳元で囁いた。 「心配せんでエエ。晩メシだけや…」  その時の、優しく低い声がいつまでも郎威軍の耳に残った。  二人は並んでオフィスを出た。  加瀬主任は、ほんの少し郎威軍より身長が低かった。そのことを、こうやって並んでみて、初めて知った郎威軍だった。  普段の加瀬主任は、軽妙洒脱で人当たりが柔らかいが、いつも姿勢が良く、自信があるのか堂々としていて、実際の身長よりも高く見えるのだ。 「晩御飯、何食べたい?」  エレベーターの中で、加瀬主任がにこやかに訊ねた。 「何が、お好みですか?」  真面目な郎威軍が聞き返すと、なぜか加瀬主任はフッと苦笑した。その意味が理解できず、郎威軍は真っすぐに主任を見返した。 (聞いたんは、こっちやぞ)  まるでクライアントに対するような郎威軍の態度に、加瀬は複雑な胸中になる。だが、そんな素振りも見せずに、もう一度加瀬は笑顔で聞いた。 「そやな、イタリアンとか好き?」  自分より10歳近く若い部下の、好きそうなレストランを思い描いて誘うが、相手は郎威軍だった。 「え?」  思いも寄らないという顔をしている郎威軍に、顔には出さないものの、加瀬は自分の失敗を感じた。 「ピザとか、パスタとか…」  せめて具体的に料理名を上げて、興味を誘おうとする加瀬だったが、やはり郎威軍には通用しなかったようだ。 「『外灘3号』とかですか?」  上海でも最高級を誇る、イタリアンレストランの入っているビルの名を上げる部下に、加瀬主任はガッカリする。 「そこは接待用の高級店やん。俺らの晩メシやで。もっと気楽な店がエエな」    この様子だと、入社以来、職場の同僚と食事に行ったり、遊びに行ったり、つまりは心を開いて付き合ったことがないのだ、と加瀬は察した。 「薩莉亜(サイゼリヤ)ですか?」  日本でもおなじみのイタリアンチェーンの名を上げる部下に、日系企業の情報を収集して勉強はしているのだと感心はするが、突っ込まざるを得ない。 「それ、ファミレスやん!男二人でファミレスて、なんか切ないやろ」 「そういうものですか?」  本気でそう思っているのが、社交性の低さを顕著にしていて、ますます加瀬は心配になる。仕方なく、部下の選択に任せることは諦めた。 「う~ん、韓国料理は好きか?焼肉とか」  駐在の日本人は、日本料理の焼肉屋を利用することが多いが、焼肉一辺倒のメニューでなく、韓国料理そのものが豊富な専門レストランも上海には多い。 「別に、特に嫌いではないですが…」  韓国系の中国人や韓国人の知人友人がいればともかく、よほど好きでない限り、わざわざ韓国料理を食べに行く中国人の若者は多くない。若者には、それよりも日本風の焼肉の方が人気だった。それと同じとは言えないが、郎威軍も接待で行ったことがある程度で、韓国料理に関心は無かった。そもそも、郎威軍は加瀬と違い、「食」にそれほどの興味が無いのだ。 「俺んちの近くに、韓国料理とイタリアンの両方食べられる美味しいレストランあるんやけど」  何も考えず、単に気に入っている店だからと候補に挙げた加瀬だったが、次の郎威軍の反応に、ハッとさせられた。 「主任の自宅ですか…」  過去、2人の間に起きたことのせいで、郎威軍が警戒しているのだと加瀬は思った。  あの頃の、若すぎて、純粋すぎる郎威軍のことを思えば、そんな風に不安を感じ、警戒心を抱いていても不思議ではないと加瀬は自分に言い聞かせる。  今さら過去は償えない。ならばせめて、少しでも心を軽くしてやりたいと加瀬は口を開いた。わざと明るく、軽薄な言い方をして、郎威軍の気持ちを楽にさせようとする。 「だから~。俺、そんなに信用無いか?一緒に晩メシ食べるだけやって。下心なんて、そんな…」  だが、そこから先は笑いに変えてしまい、加瀬主任はハッキリとは言わずに、うやむやにしてしまった。それは、加瀬の正直な気持ちだった。はっきりと「下心が無い」と言い切れるほど、加瀬は聖人君子ではないからだ。それほどに、郎威軍が加瀬にとって魅力的だという事実も無視できなかった。 「じゃあ、食事だけ。しかし、私が誘ったんですから、食事代は私が払います」  そんな加瀬の複雑な気持ちをよそに、郎威軍は毅然としてそう言った。 「律儀やな、ホンマに」  そんな融通の利かない郎威軍が、彼らしいと加瀬は微笑ましく思うのだった。

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