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第21話

 淮海路にあるレストランで、カプレーゼと、マルガリータピザと、トッポギの甘辛煮と、サムギョプサルというバラエティ豊かな料理を前に、加瀬主任と郎威軍は、少しも楽しそうには食事をしていなかった。  無表情で上司に勧められるまま口に運ぶだけの部下と、呆れたように苦笑いを浮かべながら、ちびちびと食事をする上司は、どう見ても不自然で、それでも食事を諦めて中座するつもりもないらしく、2人は依然、気まずい空気の中、義務であるかのように料理を口に入れていた。  味気ない料理を、赤ワインで流し込み、加瀬主任は困った様子で溜息をついた。 「しんどいやろ、郎くん」 「え?」  ついに我慢の限界が来たのか、加瀬主任が口を開いた。急に声を掛けられ、驚いて部下は顔を上げる。  困ったことにその顔がまた端正で、美しく、何か不愉快な感情を抱いていたとしても、それを忘れさせるほどのものだった。少なくとも、加瀬志津真はそう思った。そして、仕方ないと言った表情で軽く頭を振って、改めて笑顔を浮かべて、優しく声を掛ける。 「そんなに頑張って、気負って。前ばっかり見てたら、疲れるやろ」 「しかし、それが仕事ですから」  真面目な顔だが、そこに感情が無く、人間味さえない郎威軍の言葉に、呆れた顔で、加瀬主任は言った。 「マジで、そんなこと思ってるん?」 「……」  上司の言わんとすることが理解できず、箸を止めたまま郎威軍は無表情で加瀬主任を見返している。 「今日のこともな、郎くんのやってた事は間違いではないんや。正々堂々、真正面の王道や」  郎威軍自身もまた、今日のクライアントとの交渉の何が間違っていたのか理解できない。まさに、ルール通りの王道のやり方だった。それなのに、加瀬がまったくのイレギュラーな方法で解決してしまったのだ。そこを理解しなければ、仕事に対して自分が成長できないと、郎威軍は不安を感じていた。 「けど、正面の大通りが通れへんなら、脇道を利用するのもやり方やと思わへんか?」  確かに、クライアントとの交渉は教科書通り、完璧な手順で行なった威軍だった。  だが、何度それを繰り返しても先には進まず、無駄な時間を重ねるばかり。  確かに、加瀬主任の取った方法は王道では無く、脇道だ。だが、だからこそ成功したのだと分かっている。 「脇道…ですか」  そう言うと、考え込むように郎威軍は目を反らした。その横顔がまた、やけに悩ましい。 「前ばっかり見てたら、脇道には気付けへん。前見て、後ろ見て、横も見て、ついでに上も、下も見てみ?世の中、おもろいモンがいっぱいあるで」  何かに気付いて欲しいと、加瀬はユーモアたっぷりに語ってみるが、郎威軍にはそんな上司の苦労が届くのだろうか。 「オモロイ?」  その価値観が、やはり郎威軍には理解できない。仕事に、人生に、「オモロイ」感覚が必要なのか? 「郎くん、人生楽しんでるか?」 「はい?」  意外な問いに、郎威軍は上司の顔を振り仰いだ。 「郎くんが、精一杯頑張ってるとこは尊敬するし、素晴らしいと思う。けど、それで郎くんの人生が楽しく無かったら、それは『郎威軍』っていう人間が可哀想やん」 「『郎威軍』という、人間…?」  腑に落ちない表情に、何を思ったのか加瀬主任は急に真剣な眼差しになった。 「お前、自分に厳しすぎる。『あの時』もそうや。自分で自分を罰するようなこと、するな」  声を落とし、深刻な顔をして加瀬志津真は言った。この真剣さが、『あの時』の過去を知る加瀬だからこそ、今の郎威軍を本気で心配している証拠だった。 「加瀬…さん…」  上司としてでなく、過去を知る相手として、郎威軍は目の前の男を見詰めた。 「失敗せえへん人生が正解と違うで。失敗も経験のうちやん。どんな経験をして、何を得たかっていうのが、人生の面白さや」  聡明な郎威軍だけに、すぐに加瀬の言わんとすることは理解できた。脇道に逸れることは失敗ではないのだ、と。郎威軍のように、目の前の一本道しか知らないようでは、脇道に入るからこそ得られる経験を、知らないままで人生を終えてしまう、と、教えてくれようとしているのだ。  けれども、今の郎威軍はその脇道を見つける方法すら知らない…。 「人生に『正解』は無いって言うやん。けど俺は、どんな生き方かは、人それぞれやけど、『正解』はその人が『生きてるって面白いな』って感じられたら、それでエエんと違うかなと思てんねん」 「『正解』…ですか」 「『成功』なんて考えへんけど、これで良かったんやっていう『正解』は誰でもが見つけられると思うで」  目の前の王道を目指すことしかできない不器用な郎威軍が心配で、加瀬は郎威軍が彼だけの「人生の正解」を見つけて欲しいと思っていた。 「私に…」  思い詰めたような表情のまま、郎威軍が言った。 「こんな私に、『正解』なんて見つけられるんでしょうか」  答えを求めるように、じっと自分を見つめる郎威軍の潤んだ眼差しに、加瀬志津真の理性が揺さぶられた。 (俺が…、一緒に見つけてやろうか…。なんて、な)  不埒な気持ちを誤魔化すために、口には出さぬまでも自分で自分にツッコミを入れた加瀬だった。 「心配せんでエエ。お前のことは、俺がちゃんと見てるから」  余裕のある頼れる上司の振りをして、加瀬は優しく、甘く、柔和な声と笑顔で威軍を励ますように言った。 「加瀬さん…」  自分を見つめる加瀬主任の眼差しが、先ほどと違うことに郎威軍は気付いた。  真剣で、思いやりに溢れてはいるものの、そこにどこか熱く、欲望を秘めている。その誘惑的な視線に、この男が、自分の身体を初めて開いた男であることを改めて意識した。  加瀬志津真は、他の誰も知らない郎威軍を知っているたった1人の男なのだ。  努めてそのことを考えないようにしてきた威軍だったが、今、まじまじとそれを考えさせられた。

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