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第22話
「ごちそうさん!」
店内で会計を済ませた郎威軍に、加瀬が満足げな表情で礼を述べた。
「ホンマに良かったんか?郎くんの奢りで」
「もちろんです。あくまでも、仕事を助けてもらったお礼ですから」
実直に、郎威軍は答える。言葉以上に、加瀬には教わることが多く、本当に感謝していたのだ。
「なら、この次は、俺が奢るからな」
さらりと加瀬が言った。
(え?この次?)
なぜ、次があるのか、その理由を郎威軍はいろいろ考えてみるが、思い当たることは無かった。ただ、それもまた「脇道」の1つなのかと思えば、郎威軍に断る理由は見つからない。
「はい。ありがとうございます」
珍しく薄い笑みまで浮かべて、郎威軍は加瀬主任に頭を下げた。
驚いたのは、加瀬の方だ。郎威軍がこんなに素直に誘いを受け入れるとは、思いも寄らなかった。同僚たちとも一緒に食事など行っている様子は無いのに、何故、こんなに簡単に自分の誘いには乗ってくれたのか、加瀬には腑に落ちない。
(俺…だから?)
賑やかな淮海路の歩道で、男2人が向かい合い見つめ合っているのは、かなり奇異に映る。
「え~と、そやな…」
妖麗な美青年を前に、何を言っていいものか、加瀬は困惑していた。迷って、悩んで、頭を掻いたりしながら、ようやく口を開いた。
「また明日、職場で会おう!」
擦れ違う人々の視線に耐えかねて、ぎこちなく笑って加瀬が言った。
「はい」
答えた郎威軍に見送られ、加瀬は自宅としているサービスアパートメントに向かって、東に歩き出し、しばらく加瀬の背中を見詰めていた郎威軍は、諦めたように地下鉄の駅を目指して南へと道を渡った。
自宅に戻った郎威軍は、ホーっと1つ、ため息をついた。
疲れたわけではない、ただ、加瀬との間に、これまでの上司と部下として以外の、妙な緊張感があったのだ。張り詰めていたものを、1人になってようやく緩めることができた。
~この次は、俺が奢るからな~
耳に残る加瀬の声が、どうしようもなく威軍の心を掻き乱す。
(あの声が…、ダメだ…)
もやもやする気持ちが治まらず、威軍はシャワーを浴びることにする。
加瀬の誘いの声を、洗い流すことができればと、シャワーを浴びた威軍だったが、単調なシャワーの水音に、むしろ記憶が鮮明になる。
美味しい食事を囲んでの「脇道」の話。
交渉が進まなかったクライアントへの助力。
加瀬主任がいなければ、自分は無力だったのだと自覚する一方、彼に助けられたのだと痛感する。
思えば、加瀬志津真主任は、その存在をひけらかすことなく、いつも大きな羽根の下で部下たちを庇護しているのだ。そして、その羽根の下で部下たちは思う存分能力を発揮できる。彼の下で働けば、自分自身も最大限の力を出すことが出来る。
加瀬主任と仕事をすることで、自分自身もまた引き上げられるのだ。
~お前のことは、俺がちゃんと見てるから~
忘れようとした声が、威軍の耳に蘇る。低く、柔らかく、甘く、そして官能的で誘惑的な声だった。あの声で、耳元でもう一度同じ言葉を囁かれたなら…。
~俺が、ちゃんと見てるから~
(彼に、見られている…)
そう思った瞬間、威軍は自分の身体が熱を帯びるのを感じた。
自宅に戻った加瀬は、フーっと1つ、ため息を落とした。
言い知れない疲労感があった。ただ、郎威軍との間に、これまでの上司と部下として以外の、ささやかな交流が持てたのは確かだった。思い返して、1人で頬を緩めるのを止められない。
~こんな私に、『正解』なんて見つけられるんでしょうか~
そう呟いた郎威軍の、心細そうな瞳が忘れられない。
(あんな顔されたら…、アカンわ…)
もやもやする気持ちが治まらず、加瀬はシャワーを浴びることにした。
思えば、初めて会った時から、郎威軍という人間はどこか痛々しいところがあった。頭が切れすぎて、寄り道をする間もなく、すぐに答えを見つけてしまうのだ。確かに、彼は正しい答えを驚くほど素早く、的確に見つけることは出来る。だがそれは彼にとっての答えに過ぎず、周囲の人間の事や状況などを受け入れる余裕が無い。
昔ながらの言葉を使うなら「仁」の心が足りないのだ。もう少し、融通が利くようになれば人間味が出るだろう。
オフィスでは、あれほどのイケメンなのに、無表情で、仕事は完璧だが、頭が固くて融通が利かない。そんな威軍を機械のようだと、「ロボット」だの、「アンドロイド」だのと裏で呼ぶ者もいる。それは決して悪口として使われるだけでは無いのだが、加瀬は少し誤解されている郎威軍が不憫に思う。
(もっと幸せになる価値のある人間なのに…な)
誰も知らない郎威軍の魅力を知る加瀬は、それを知った「あの夜」のことを思い出し、体温が上がるのを感じた。
一度は知ったカラダだった。知っているだけに、未練が残る。
あれは、威軍にとっては、愛の無い「行為」だと思っているだろうが、加瀬にはそれ以上の体験だったし、忘れられない夜となった。だが、一瞬の性的快感が、あの一夜限りの美青年を忘れ難い物にしたのではない。あの時から郎威軍という人間は魅力的で、以来ずっと加瀬の心を捉えて放さないのだった。
だから、偶然に就活中の彼に再会した時、自分の部下にしたいと社長に捻じ込んだのだ。
(部下以上には…望んだら、アカン)
いつになく真剣な眼差しで、加瀬は強く決意し、唇を噛んだ。
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