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第23話

 翌日からは、交渉が成立した案件のプロモーションが動き出し、郎威軍も陳女史と共に忙しく動き回っていた。  加瀬主任もまた、中途入社の台湾系アメリカ人である余安徳と組んで、新しい案件に追われていた。  基本的に、営業部第1班は相手にしているクライアントが大企業であることから、意外に週末は休みのことが多い。土日に行なわれるショーやイベントは、広報事業部の担当なのだ。たまに手伝いに駆り出されることがあり、その時は、休日出勤も有りうる。  営業部第1班にとって、金曜の夜は、残業や明日の休日出勤が無ければ、ゆっくりと週末の夜を楽しめる期待の夜だ。 「アンディ、たまには一緒に飲みに行かへんか?」  アメリカでのビジネスの経験はあるものの、このオフィスではまだ日が浅い、余安徳ことアンディ・ユーと、さらに親交を深めようと加瀬主任は彼を誘った。  アンディは、ドイツ系アメリカ人の父と、台湾出身の母の間に生まれたイケメンのアメリカ人だが、上海にきて1年になるのというのに、ガールフレンドの噂1つも聞かない。かと言って堅物というのでもなく、ゲイだとも思えない。決して悪い人間ではないと思えるのだが、いろいろ読めない人間ではあった。 「スミマセン!第5班に来た新人の歓迎会に誘われてるんです」  何の悪びれた様子もなく、アンディはにっこりとして主任の誘いを断った。人間関係にドライな点は、さすがにアメリカンだと加瀬主任は思う。 「なんで、お前だけ誘われるねん?」  ムッとしたように加瀬主任が言うと、分かり切ったことのように明るくアンディが答える。 「新人って女の子だし、僕のようなイケメンが喜ばれるからでしょう」  当然のように言われ、加瀬主任は返す言葉がなかった。 「はあ…さよか…」  呆れ切った加瀬主任をよそに、爽やかな笑顔を振りまきながら、濃い顔のアンディは第5班のメンバーが待つ方へと去って行った。 「イケメンって…自分で言うか?」  アンディの後ろ姿にそうツッコミを入れつつ、加瀬部長は小さく呟く。 「郎くんの方が、よっぽどイケメンやん」  けれど、職場のみんなが郎威軍を誘わない理由は分かっている。確かに彼は、このオフィスで一番の美形だが、誰にも心を開かないからだ。  容姿も、仕事も完璧な郎威軍を前にしては、誰しもが劣等感を抱いてしまう。それを払拭するには、郎威軍自身が心を開き、人間的な隙があることを見せるのが一番早い。だが、郎威軍にはそれが出来ない。いや、正確にはそれが必要なことも知らないし、どうすればいいかも知らないのだ。  加瀬志津真1人が知っていた。  郎威軍は完璧だ。その一方で、何も知らない無垢で純粋な子供でもあるのだ。 「あの、加瀬主任?」 「うわっ!」  急に背後から声を掛けられ、加瀬は驚いて声まで出した。  週末の帰宅を急ぐオフィスの面々が、その声に驚いて振り返るほどだった。 「失礼しました」  状況を理解できないまでも、何となく自分に原因がある気がした郎威軍は、すぐに加瀬主任に頭を下げた。  主任と部下の間で何かあったのかと納得したのか、すぐにオフィスの人間の関心は二人から離れる。 「いや、あの…。なんやったかな、郎くん」  動揺を引きずったまま、強張った愛想笑いを浮かべて、加瀬主任は部下へと向き直った。そこには、相変わらず不愛想な郎威軍が真面目な顔で立っている。 (ほんのちょっと笑ったら、カワイイのにな)  不適切なことを考えていた加瀬主任に、部下の一言は衝撃と言って良かった。 「もし、よろしければ、この後一緒に食事でもいかがですか」 「へ?」  あまりに意外な言葉に、間抜けな声が出た。加瀬は一瞬、自分が聞き間違えたのではないかと思ったほどだ。  郎威軍は威軍で、上司の返答の鈍さに、拒絶と疑った。 「お忙しいのでしたら、またの機会に…」  そう言って帰ろうとした郎威軍を、我に返った加瀬主任は慌てて腕を掴んで引き留める。 「あ、いや、その…」  不用意に体に触れてしまい、フッと加瀬に緊張が走る。 「あ…、別にエエけど」  慌てて手を放し、誤魔化すようにヘラヘラと笑うしかない加瀬だった。 「本当に?ご無理はなさらないで下さい」  そんな加瀬の葛藤も気付かないのか、郎威軍がその麗容を無遠慮に近づける。真剣な顔は整い過ぎて、本当に人工物のように見えなくもない。 「無理なんて、全然!」  やっと、いつもの調子を取り戻した加瀬主任は、トレードマークのような人好きのするチャーミングな笑顔で、言った。この笑顔で迫られて、断れる部下はいないのだ。 「但し、条件が1つある」  ほとんど変化は無いのだが、僅かに郎威軍の眉が怪訝そうに寄ったのを、加瀬は見逃さなかった。だが、今は気が付かない振りをする。 「条件、ですか?」  ニッと子供のように悪戯っぽく笑って加瀬は言った。 「今回は、俺の奢りやで」  思うよりもずっと低い条件に、加瀬の笑顔につられるように郎威軍の口元も緩んだ。 「はい」  威軍がはっきりと返事をして、それを満足そうに加瀬が見つめていた。  2人は、揃ってオフィスを後にした。  加瀬がタクシードライバーに提示した行先は、南京東路のとあるビルだった。 「北京ダック好きか?」  タクシーの後部座席に並んで座って、加瀬主任が今さらに郎威軍に確かめる。 「ええ。河北省出身なので」 「?」 「ああ、北京の近くです」 「そうなんや。ほな、本場の北京ダックで口が肥えてるんやな」 「そんなことは無いと思いますけど…。北京で、北京ダックってあまり食べませんでしたし」 「そうなん?北京って北京ダック食べるトコちゃうん?」 「…?…」 「で、北京の子が、なんで上海にいるん?」 「大学で、こちらに来たので」 「ふーん」  そんな、取り留めのない会話を交わすうちに、黄浦江の下を通るトンネルをくぐり、オフィスのある浦東地区から中山路に入った。そこを北上し、九江路に入る。南京路添いのビルに向かっているのだが、南京路は歩行者専用道路なので一筋南の通りを進むのだ。  しばらく真っ直ぐに九江路を進み、広西路を北上すると南京路との交差点に出た。そこでタクシーは停車して、2人は降りた。

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