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第24話

 観光客が溢れかえる南京東路にあるそのビルは、子供の衣類や玩具を専売するデパートだ。だが9階には、滅多に観光客も来ない、地元の上海っ子が贔屓にする老舗の北京ダックの店がある。  郎威軍も接待で何度か来たことがあるが、北京のパリっとした香ばしい皮を楽しむローストダックと違い、どちらかというと香港式のローストダックで、皮だけでなく肉も美味しくいただけるのだ。  エレベーターで9階まで上がると、フロアいっぱいに丸いテーブルが並んでいる。日本のレストランと比べると圧巻な広さと数だが、どこか殺風景だ。しかし、料理さえ美味しければ、加瀬は気にしない。接待の時は個室を用意させるが、今日は人目のある方が却って安心だろうと加瀬は思った。  メインのダックに、いくつかのサイドメニューを注文して、隅のテーブルで加瀬と郎威軍は向かい合って食事を始めた。 「郎くんは、酒はあんまり飲まへんのか?」 「そうですね。必要以上には」  とりあえずビールを頼んでから、加瀬は聞いた。接待では部下の郎威軍も飲酒していた覚えはあるが、そんなに積極的に飲んでいた印象が無かった。 「なるほど」  奇妙な返事をして、加瀬はビールを一口飲んで黙り込んだ。  それがどういう意味なのか、郎威軍が聞き返そうとした時、店自慢のローストダックが運ばれてきた。 「さ、食べよ」  機嫌よくダックを包んで食べ始めた加瀬に、郎威軍は先ほどの加瀬の発言を聞き質すことは出来なかった。  そのまま、職場の噂話や日本の話を、ほぼ一方的に加瀬がしゃべっていた。  それでも郎威軍は楽しく食事をした。接待以外で、他人と食事を共にすることが、ほとんど無い威軍にとって、これほど充足感のある食事は珍しい。  口が肥えた加瀬が選ぶ料理はどれも美味しかった。  エリート官僚出身の加瀬はマナーが良く、食べ方も美しく、一緒に食事をしていて気持ちが良かった。  会話も、まるで郎威軍が職場の情報を得ることで、仕事や仲間に関心が持てるようにと心を砕いているかに威軍には感じた。  これほど居心地のいい、楽しい食事は、これまで威軍は知らなかった。 「ごちそうさまでした」  人通りの多い南京東路に出て、郎威軍は加瀬主任に礼を言った。 「かまへん、かまへん!郎くんに喜んでもらえたら、俺も嬉しいで」  ほろ酔いの加瀬が、明るくそう言って、ポンポンと郎威軍の肩を叩いた。 「タクシー、捕まえましょうか?」  郎威軍が聞くと、加瀬は笑って手を振って断った。 「明日休みやし、この近所のマッサージに行くねん」 「え?」  加瀬主任の発言に郎威軍は驚いた。  加瀬が、マッサージ店に行くのだと初めて知った。しかも、一大観光地である南京路の真ん中にあるマッサージ店だという。1本でも道を変えれば、同じ程度のマッサージの腕でも格段に安い店があるというのに、わざわざ割高な南京路のマッサージ店を利用しているというのだ。何らかのコネクションがあるのか、地元の優良店よりも、日本人向けの店を選ぶのだと、少しがっかりする。  確かに、クライアントはじめ、日本人駐在員などはマッサージを好む。性的なマッサージに限らず、日本よりも低価格で、本格的なマッサージを受けられると日本人は喜ぶのだ。性的なものでなくても、大抵は男性には女性のマッサージ師が付く。陰陽の気が合うとか理由付けはされているが、結局、男性は女性マッサージ師に触れられるのを喜ぶのだ。  加瀬も、そんな男の1人だったのだと、改めて思い知らされた威軍だった。 「郎くんも、行くか?」  屈託なく誘ってくるが、威軍には抵抗があった。 「いいえ」  郎威軍は、マッサージ師が女性だから、男性だからということではなく、他人が自分の身体に触れることが苦手だった。  それなのに…。  加瀬は、加瀬だけは、威軍の素肌に触れた唯一の人なのだった。  その加瀬の身体に触れる誰かが居る…。それが、威軍の胸をざわつかせた。  海倫飯店(ソフィテルホテル)の前で2人は別れた。 「また明日、職場で会おう!」  いつものようにそう言って、加瀬主任は隣のビルへと消えて行った。  残された威軍は、九江路まで出て、タクシーに乗って1人浦東地区の自宅アパートへと向かった。  以来、週末に加瀬主任と郎威軍が夕食を共にすることが格段に増えた。  2人きりの時もあったし、同じ第1班のメンバー全員と行くこともあった。また、アンディが言っていた第5班の新入りが、現地採用とは言え日本人の、しかも加瀬と同じ関西出身と分かって以来、他の班のメンバーとの食事の機会も増えた。  ちょうど、加瀬主任と郎威軍が食事をするようになって3カ月ほど経った頃、ちょっと変わったメンバーでの食事会が開かれた。  その夜は、第1班からは加瀬主任と郎威軍、前職で関西での勤務経験がある余安徳(アンディ・ユー)が、第4班からは最近入社した才色兼備の白志蘭(パイ・チーラン)と、関西に留学していたという張勇(チャン・ヨン)という青年が、第5班からは韓日ハーフで小学校までは日本で暮らしていたという金梨香(ジン・リーシャン)主任と同じ関西出身の日本人ということで加瀬主任のお気に入りでもある新人の百瀬茉莎実(ももせ・まさみ)が参加しての、「関西会」の宴会だった。 「あ、加瀬部長!実家からこういうの送って来たんですけど、食べます?」  浦東地区にある、山東省の料理を出す人気のレストランの個室で、「関西会」は行なわれていた。  そこで、百瀬が取り出したのは、関西ではよく知られた袋入りのお菓子だった。 「うわ~懐かし~『満月ぽん』や!こっちは…、『鶯ボール』?好きや~コレ!」  関西限定の駄菓子に、大いに興奮する加瀬主任だった。  そこから、それぞれの関西の思い出や、オススメの店など情報交換などで、面白おかしく、楽しい時間を過ごした。 「この前、志蘭とディズニーランド(上海)行ったんですよ~。なんで、今度、日本に帰った時は、一緒にユニバ行こうと思って」  無駄に愛想のいい百瀬とクールビューティーな白志蘭では、タイプが違うと思っていたのだが、意外に気が合うようだった。チームは違うものの、2人はすっかり友人らしい。 「郎くんは、ユニバ知ってる?」  アメリカ人らしく、社交的なアンディ・ユーが何の気なしに郎威軍に訊ねた。 「いえ…」  言いかけた郎威軍を庇うように、加瀬主任が言葉を継いだ。 「郎くんは、な。まだ日本に行ったことないねん」  まるでアンディから威軍を守るような態度だった。そんな加瀬主任に、一同が驚いてその顔を見た。 「何してるんですか、加瀬主任!」「連れて帰らなアカンでしょう!」 「へ?」  一斉に責めるように言われ、返す言葉を失って、顔を歪めるような笑いで誤魔化すしかない加瀬だった。

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