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第26話

 パタンと、ノートパソコンが閉じる音で威軍は目を覚ました。  一度目覚めて、志津真が仕事をしている姿を見守っていたつもりだったのに、いつしか眠ってしまっていたようだ。  気が付くと、ローテーブルの向こうから優しい瞳で志津真が自分を見詰めていた。威軍も、目を合わせて、静かに微笑む。  ゆっくりと体を起こした威軍を、志津真は眩しそうに見ている。それほどに、気だるげな動きをする威軍は悩まし気で、美しいのだった。 「ごめんな。もう昼や」  そう言うと志津真は立ち上がり、威軍のいるソファまで来た。そして、ごく自然な仕草で威軍の髪に触れ、そのまま隣に座る。 「報告は終わりましたか?」  心配性な恋人に、志津真はニッと笑って軽く触れるだけのキスをして、頷いた。 「そんなん、とっくに終わってる」 「起こしてくれたら良かったのに…」  眠っていた自分に非があるように言われた気がして、威軍はちょっと拗ねたように上目遣いで恋人を見た。 「なら、すぐに起きて、出掛ける支度しよか」  もう一度、威軍の髪に触れて、志津真は立ち上がった。 「明日の夜まで、休みやろ。今すぐに出たら、余裕で楽しめる」  志津真の言葉の意味が理解できず、寝室へ向かう恋人をきょとんとして見るしかできない威軍だった。 「新幹線も、ホテルも予約出来てる。30分後にはタクシーも来るで」 「な、何を言ってるんですか!」  慌てて全裸のまま、威軍は寝室に消えた恋人を追いかけた。  志津真は、すでにラフなルームウェアは脱ぎ捨て、私服に着替え始めていた。 「どこに行こうって言うんです。新幹線って?」  驚く威軍をよそに、スリムのブラックデニムを穿き、パープル系のブランド物のボタンダウンのシャツを着た志津真は、金庫からパスポートを取り出した。  中国の新幹線こと高鉄(高速鉄道)は、外国人がチケットを買う時や乗車時にパスポートの提示が求められる。それを忘れずに身につけて、財布やスマホを手にすると、恋人の方を振り返って呆れた顔をした。 「まだそんなんか?早く用意せんかったら、間に合わへんで」 「あ、あの…」  自分の姿に気付いて、急いで威軍はバスルームに向かった。すっかり混乱していた。しかし、志津真が何かを企んでいるのは確かだが、決して自分が嫌がるような事はするはずが無いと威軍は確信していた。  慌ててシャワーを済ませ、威軍が寝室に戻ると、すでに志津真はリビングに戻ったようだった。 (ホテルと言ったか?明日の夜?1泊2日の出張?)  威軍は戸惑いながらも、手早く着替えを済ませた。ネイビーのパンツはキッチンで脱がされたので、その場に置いてあったベージュのチノパンに、昨日買ったばかりのシルクニットのサマーセーターを着てみた。肌触りがこの上なくいい。その心地よさに、少し気持ちが落ち着いた。  急いで威軍もリビングに戻った。やはりそこには志津真が居て、イタリアの有名ブランドのトートバッグを隣に置いて待っていた。 「よし、これでエエな。さあ、行こか!」  A4サイズが入るトートバッグを肩に掛け、志津真が立ち上がった。 「志津真!」  もう我慢ができずに、威軍は志津真の腕を掴んだ。 「せめて、どこへ行くのか、教えて下さい」  恋人の問いに、志津真は鷹揚に微笑み、澄ました顔で言った。 「蘇州ですが、なにか?」 「蘇州?」  あっけにとられた威軍の手を引いて、志津真はホテルの部屋を飛び出した。  サービスアパートメントのコンシェルジュに、蘇州までの高鉄のチケットと、高鉄に乗る上海虹橋(ホンチャオ)駅までのタクシーを頼んでいた志津真は、自分の有能さを見せつけるようなドヤ顔を恋人に向けた。  そんな子供っぽい恋人を、嫌いになれない威軍はただ、穏やかな表情を浮かべるだけだった。  2人が乗ったタクシーは駅に着き、急いで降りると、乗るはずの電車が待つホームへと小走りに向かった。  日本と違い、全席指定の新幹線に予定通りに乗り込むと、2人は並んで座った。  先ほどまでは、何が起きるのかと緊張していた威軍だったが、蘇州へ行くことが分かり、もはや開き直るしかないと思った。  上海虹橋駅から蘇州までは、およそ30分で到着する。出張で何度か乗車している2人は、短い時間を退屈することなくゆっくりと過ごした。  1時過ぎの新幹線に乗ったので、ホテルのチェックイン時間である2時にはちょうどいい。2人はタクシーで、まるで古代の宮殿のような風情があるパンパシフィックホテルに、2時に到着した。 「さすが蘇州って感じやな」  ホテルの雰囲気に満足したように、志津真はゆっくりとロビーを見回した。 「初めてなんですか、このホテル?」  真っ直ぐにフロントデスクに向かっていた威軍が、振り返って訊ねた。  2人とも、蘇州への出張は少なくない。だが、このホテルは世界遺産の庭園が多い旧市街地区にあり、出張先は新興のビジネス地区なので、ここからは、かなり離れている。  そう言えば、威軍自身も蘇州へはビジネス地区への出張で来たことしかなく、有名な世界遺産を見るのは初めてだった。 「Welcome!Are You Check in?(いらっしゃいませ。チェックインですか?)」  日本語で会話していたことで、中国語ではなく英語で話しかけられた。ダークグレイのスーツ姿のホテルマンの胸には、コンシェルジュと表記されていた。 「Yes!Please」  答えようとした威軍を差し置いて、中国語が出来ない分、英語ならばと志津真が前へ進み出た。  志津真が名乗ると、コンシェルジュは一般のフロントデスクではなく、ソファに座って待つように言った。 「どうして、こんな優遇を?」  不思議そうに言いながら、威軍も志津真の隣に座った。 「ちょっと、奮発したんや。このホテルの最上位のスイートルームを予約しているねん」  無邪気な子供のように言う志津真に、いつもなら無駄な出費をするなんて、と文句の1つも言うところだが、今日の威軍は志津真のペースに巻き込まれることにした。 「楽しみですね」

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