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第27話

「ぅわ…!」  大抵の事には動じない「アンドロイド」と渾名される郎威軍でさえ、その部屋に一歩入るなり小さな声を上げた。  広々としているリビングの向こうに見えるツインベッドルームは、志津真に言わせれば「今回は不要」とのことだ。言われるがまま、階段を上がってロフトになっているメインのベッドルームで、威軍が声を上げたのだった。  明るい陽射しの差し込むキングサイズの清潔なベッド。大きな窓の外には蘇州の歴史的な景観が見渡せ、屋外のジャグジーまで完備されていた。 「楽しみやろ」  そっと後ろから近づき、あの声で志津真が囁いた。それが、ジャグジーで寛ぐことなのか、キングサイズのベッドでの営みのことなのか、威軍には判別できなかったのだが、どちらも実際、威軍には楽しみだった。  ベッドルームから外に出ると、古典的な中国庭園が見える。この盤門景区と呼ばれる庭園には、このホテルのゲストは無料で入園できるという。 「今日は、この下の庭でも見て、あとは蘇州料理でも食べに行こう。明日は、1日タクシー借りて市内観光しようか」  楽しそうに予定を語る志津真が、威軍には愛しくてならない。こうして一緒に居られるだけで幸せで、気持ちが高揚した。 「蘇州料理って?」  珍しく、威軍が興味を示した。それが、恋人のご機嫌な証拠だと分かっている志津真は、敢えて反応を見せず、ただ口元でニンマリと笑っただけだった。 「淡水魚の揚げ物の甘酢あんかけが有名らしいけど…」  言いかけて、志津真は言葉を濁した。  郎威軍は、仕事上の接待などで日本食を口にすることも多く、グルメ志向の恋人の影響もあって、何でも食べられるのだが、基本的に魚はあまり好きではないのだ。そのことを知っているのは、河北省に住む家族と、恋人くらいだった。 「出張の時、食べませんでしたか?」 「あ~、なんか松ぼっくりみたいに揚げたヤツ?」  記憶を辿り、志津真は蘇州で必ず食べたいというメニューで無かった事を思い出した。  蘇州名物の「松鼠桂魚」は、淡水魚の桂魚をインパクトある見た目に揚げ、日本人好みの甘酢あんかけを掛けたもので、観光に来たならば一度は食べておいた方がいいだろう。  だが、淡水魚だけにクセがあり、好みは大きく分かれる。魚を揚げてあんを掛けた、似たような料理は上海でも、北京でも食べることが出来る。ましてや、あまり魚が好きではない威軍に、どうしても食べさせたい料理ではないことに志津真は気付いた。 「今夜は、ホテルで済ませませんか?」  意味ありげに微笑んで、威軍の方から言い出した。  ホテル内には中華料理と日本料理のレストランがあった。確かにホテル内のレストランで済ませれば、移動時間が節約できる分、スイートルームで過ごす時間が増えることになる。 「久しぶりに、すき焼きなんてどうですか?」  くすぐるような威軍の言い方に、志津真の期待が高まる。 「お前が、そうしたいなら…」  そう言って、そのまま2人はソッと唇を重ねた。 「けど…、ちょっと腹減ってきたな」  ニッと笑うと、志津真はポンと1つ威軍の肩を叩いて、スイートのリビングへ戻って行った。部屋に用意されたウェルカムフルーツのブドウを1粒口にした志津真は、その酸っぱさに顔をしかめた。 「甘いのがエエな」  昼食を済ませていなかった2人は、最上位スイートの特権である、VIPラウンジの無料のアフタヌーンティーと軽食のサンドウィッチで空腹を満たした。  時刻は4時少し前。ラウンジの担当者に、威軍が中国語で、今夜の日本料理店での夕食の予約を入れた。 「7時からで」  志津真の日本語での意向も、威軍はきっちりと伝える。  そうと決まれば、2人はハウスブレンドコーヒーとアールグレイを飲み干して、立ち上がった。  ホテルの宿泊者は宿泊カードを見せるだけで、盤門ガーデンに入ることができた。明日見学に行く予定の、世界遺産でもある摂政園や留園とはまた違うが、それでも十分に古典的な中国庭園で、2人はゆっくりと散策しながら、明日のことを話し合った。 「摂政園、虎丘、寒山寺は三大名所やって」  スマホで情報を読み上げる志津真に、隣の威軍は終始穏やかだった。  気が付くと、夕方のせいか周囲には誰もいなかった。それを確かめると、威軍がソッと手を伸ばした。 「!」  らしからぬ行動に、驚いた志津真だったが、旅先の開放感からかと素直に受け入れ、白く美しい威軍の指に自分の指を絡めた。 「恋人繋ぎって言うんやで」  しっかりと手を握り、2人はしばらく誰にも邪魔されないデートを楽しんだ。  少しずつ暗くなりはじめ、庭園を抜けて、少し街を歩くときも、2人は手を繋いでいた。  誰にどう思われても良かった。ただ、互いが愛し過ぎて、手を握っていたかったのだ。  そのまま2人は楽しそうに笑いながら、ホテルに戻った。  食事の時間まで、もう一度ラウンジに行くことにした。間もなく6時でハッピーアワーとなり、食事の前の飲物が無料で提供されるのだ。  食事の前だからと、強いカクテルを望まない志津真は、ライチリキュールを使ったチャイナブルーを、威軍は食前酒に相応しいシェリーベースのカクテル「アドニス」を注文した。 「なんや変わったモン、飲むんやな」  志津真はそう言ってからかったが、威軍は笑って答えなかった。 「お前がそんな名前のカクテルなんて、むしろ『ナルキッソス』やな」  言うまでもなく、「アドニス」も「ナルキッソス」もギリシャ神話に登場する美少年の名前である。そして「ナルキッソス」は、「ナルシシズム」の語源になった。  確かに、「アドニス(美少年)」を注文する郎威軍の美貌は圧倒的で、皮肉な感じさえする。けれど、今や郎威軍は成熟した魅力を身につけており、大人に操られるだけの少年のか弱さは無い。  そして、加瀬志津真は思い出すのだ。  初めて郎威軍と出会った時、志津真が注文したカクテルが「アドニス」だった。

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