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第32話

 翌朝、威軍はこの上なく心地よく目覚めた。  ふと気付いて隣を見ると、そこには志津真がこちらに体を向けて眠っていた。  寝ていながらも、自分の方を見守っている恋人に、思わず威軍も破顔する。  優しくて、頼もしくて、夜はセクシーな恋人であるけれど、こんな風な寝顔を見せる志津真は無邪気でカワイイ。  微笑みを浮かべ、とても穏やかな気持ちで、威軍は身を起こした。 「!」  ベッドから抜け出そうとした威軍の手首が、急に掴まれた。 「行ったら、アカン」  ニヤっと笑って志津真が言った。  横柄にも、甘えるようにも取れる志津真の態度に、威軍もときめいてしまう。 「どこにも、行きませんよ」  そう言うと威軍も、甘い口づけを志津真に与える。 「一緒に朝食に行きましょう」 「俺は、ウェイが朝食でもエエんやけどね」  笑いながらそう言って、志津真から軽い「おはよう」のキスをすると、素直に掴んでいた威軍の手首を放した。  許された威軍は、それでも視線を交わしながらベッドから起き上がり、シャワールームに向かった。 「追いかけてこないように、鍵を掛けますからね」  姿を消す直前、威軍がそう言うと、志津真はさも楽しそうに声を上げて笑った。  威軍がシャワーを終えて出てくると、そこには信じられない光景が広がっていた。 「いつの間に?」  驚きを隠せない威軍に、志津真は相変わらずの調子の良さで、余裕を見せる。 「そこは、ほら。俺ってデキる男やから」  スイートルームのリビングには、ステキなイングリッシュブレックファーストが温かそうな湯気を上げて並んでいた。  フレンチのギャルソンを気取って、熱い紅茶をサーブする志津真だが、その姿はバスローブのままだ。  自分にはコーヒーを注ぎ、2人は窓際のテーブルに向かい合わせに座った。  シリアルに、ミルク。  フレッシュフルーツのサラダに、ジュースはグレープフルーツ。  卵料理は、カラフルなパプリカ入りのオムレツで、カリカリに焼いたベーコンが添えてある。次のトマトとマッシュルームのソテーには、ソーセージが添えてある。  薄いトーストの横には、ママレードとイチゴジャムの小さい小瓶が並んでいた。  それ以外にも、バスケットにはクロワッサンとスコーンとバターロールが入っていた。 「食べきれない」  浮かれた気持ちを抑えるように、威軍がニッコリして香りのいい紅茶にミルクを入れて、口に運んだ。 「ヨーグルトに、ブルーベーリーソースか、メイプルシロップか、どっちを入れる?」  志津真も幸せそうな顔をして、威軍に聞いて来る。 「メイプルシロップでしょ、あなたは」  恋人の好みは、きちんと把握している威軍は悠然と答えた。  そこから2人は、誰にも邪魔されない朝食をスタートさせた。  好きな食べ物のこと、今日の蘇州観光のこと、それから気になる観光地の話の意見交換をし、いつか一緒に行こうと約束をした。  ただひたすら、安らかで幸せに満ちた時間だった。 「新婚さん、みたいやな」  志津真が言うと、威軍が苦笑した。そして、しっかりと志津真の目を見て言った。 「違うんですか?」  こうして2人の関係が深まるほどに、威軍のジョークも上達していく。  微笑みを交わし、加瀬志津真と郎威軍は、至福のひとときを噛みしめるのだった。  身支度を整え、名残惜し気にスイートルームをチェックアウトした2人はコンシェルジェにタクシーの貸切を頼み、蘇州駅からの帰りの新幹線に間に合うような観光コースを相談した。  まずは、「中国のピサの斜塔」と呼ばれている、虎丘の斜塔へ行き、観光客が少ないうちにベタな写真を撮って遊ぶ。  そこからは世界遺産の庭園を巡った。蘇州には四大名園があるのだが、時間が無いだろうとのホテルのコンシェルジュのアドバイスで、最大の拙政園に行くことにした。明代の庭園である拙政園は、もちろん世界遺産にも選ばれており、自然の草花だけでなく、楼閣を備えた建築物も楽しめる見ごたえのある庭園だ。  蓮池の前の立派な建物を見上げて、思わず志津真が言った。 「なんか、ドラマのロケ地っぽい」 「実際、ロケに使われることもありますよ」 「ふーん」  見回すと、まるで自分が時代劇の世界に紛れ込んだような気がする。そんな妄想に、ふと志津真が呟いた。 「もし…」  何を言い出すのかと、威軍は黙って志津真の表情を窺った。 「もしも、中国のテレビドラマみたいに、ここでタイムスリップしたら…」  中国のテレビの古装劇(時代劇)では、一時タイムスリップ物が流行した。現代人が過去の王宮にタイムスリップして、歴史を知る優位性や現代的な感覚で、過去の宮廷生活を乗り切るというものだ。  流行なので仕方がないが、大抵はそれら現代人は女性で、タイムスリップした過去の宮廷では夢のようなロマンチックな恋愛を繰り広げる。このパターンのドラマが1作ヒットすると、その後似た設定で何作も作られるのが中国式だった。 「タイムスリップしたら、俺とウェイは出会うことも出来ひんかもな」  突拍子もない志津真の空想に、威軍は付いて行けずに、キョトンとした。 「俺、中国語、話せへんし。ウェイはきっと身分の高い若様で、俺なんか相手にしてくれへんに違いない」  そこまで言い切る志津真に、我慢が出来ずに威軍は吹き出した。 「なんで一緒にタイムスリップして、私だけが若様なんですか?」 「あ、そうか…」  そう言って笑った志津真だったが、歴史的な建物を覗き込んで感慨深そうに続けた。 「けど、こういう昔の立派な建物に、昔風の衣装でウェイウェイが立ってたら似合うやん。ぜったいにキレイで、モテモテの若様やで」 「『紅楼夢』じゃないんですから」  中国四大小説に数えられる、清代の白話小説になぞらえて威軍は答えるが、自分が主人公の賈宝玉のように色好みではなく、一途であると志津真には分かっていて欲しかった。 「モテなくていいです。志津真さえいたら」 「……、知ってる」  ちょっとはにかむように言った威軍に、志津真も苦笑するしかなかった。

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