アオがバルコニーで倒れた二日後、佐伯は一色の勤める病院へと向かった。 ◇◇◇ 「おまえがしっかり来てくれてよかったよ。」 　一色は、佐伯のそばにぴったりくっつくアオを見て、安堵した。内心はかなり心配していたのだ。 「アオくんは、佐伯に触れられて気分が悪くなったりはしないかい？」 一色がアオに視線を合わせ、優しく問う。 　アオはこくりと肯いた。 「あ、あの。先日は倒れた僕の介抱をしていただいた、と先生から伺いました。ありがとうございました。」 　深々と頭を下げるアオを見て、一色は柔らかく微笑んだ。 「医師として当然のことをしたまでだよ。それから、お礼なら透に言ってもらえたらいいな。透がアオくんの処置をしてくれたんだ。佐伯や俺はアルファだから、あの状態のアオくんに触れるのは憚れたんだ。」 「でも、よかったよ。アオくんが佐伯を受け入れてくれて。こいつは君にめろめろだからね……」 　一色が悪戯っぽく、付け加える。 　佐伯は文句を言おうとしたが、一色は立ち話はここまでと言うように、ひらひらと手を振りオメガ科へと案内するために歩き出した。 　一色の爆弾発言で顔を真っ赤にしてしまったアオを見やって「すまんな」と耳元で囁くと、みるみると小さくなってしまう。その姿を見て、佐伯の胸には愛おしさが込み上げてくるのだった。 ◇◇◇ 　一色から紹介されたオメガ科の医師、嘉月京(カツキ ケイ)は、彼自身も第二性がオメガであるため、佐伯は安心してアオを任せられた。 　嘉月は、小柄で色素の薄いブロンドの長い髪を、ゆるく一つに纏めた姿で、女性的にも見える医師だった。目尻が少し垂れているので、受ける印象も柔らかく、深く傷ついたオメガが多く来るこの場所には、ぴったりな存在だろう。 　多くのアルファからたらい回しにされた過去があるアオは、病院に向かう時も先立つ不安からか、身体が震えてしまっていたが、嘉月と彼のいる診療室ではリラックスしているように佐伯には感じられた。 「こんにちは、アオくん。これからきみの身体のことや心のことを調べていきたいから、いくつかの検査と質問をしていきます。もし、あまり聞かれたくないようなことがあったら、無理して答えなくてもいいし、佐伯さんには一時的に退出してもらうこともできます。佐伯さんには、診察室の外で待ってもらうかい？」 　嘉月が丁寧な口調でアオに訊ねると、アオは隣にいる佐伯に不安げな視線を送り、少し俯いた。佐伯はそっとアオの背中を撫でてやった。そのことで少し安心したのか、アオはふるふると首を振って口を開いた。 「佐伯さんには、僕のそばにいてもらいたいです。僕が話すことも、彼には聞いてもらいたいから。それに、二人でこれから生活するのなら、僕の身体のことも、佐伯さんは知っていた方がいいと思うから……」 　佐伯は健気なこの青年を、今すぐ抱きしめてやりたい衝動をどうにか抑えた。 「分かりました。検査なんだけど、内診はなるべく手早く終わらせるからね。一色や透くんから少し事情を聞いたけど、きみはこれまでアルファに性交渉を強いられることは沢山あったのかな？」 「あ、僕はその、先生たちがエクスタシーで作品を昇華させるためのお手伝いをしてきました。その、だから……」 　アオはぎゅっと佐伯の指を握った。佐伯はそれを振り解くどころか、優しく手を繋いでくれた。 「だから、僕はその時の先生が飽きるまでは、そう言った性交渉を殆ど毎日続けてきました。先生が飽きたら、僕はまた新しい先生のところへもらわれて、でもすることは変わりません。…僕は発情することしかできない欠落品ですから……」 「それは誰かに言われたことなのかな？」 　嘉月は変わらず穏やかであった。 「あ、はい。もうずっと前のご主人様…あっ、先生に言われました。」 「アオくん。アオくんに性交渉を強いた、その先生と言う人たちに、ご主人様と呼ぶことを強要されたのかな？」 「はい。最初の先生に言われました。」 「他に強要されたことはありますか？」 「新しい先生の所に行ったら、僕を拾ってくれた方達だから、足の指先に、その、き、キスをしろと言われました。」 「そういった生活はどのくらい続いたのかな？」 「僕がちょうど20歳になった頃だから、四年くらい続いたと思います。」 「その時にアオくんは、番を解消されたのかな？」 　アオの身体がピクリと震えた。嘉月もその様子を見逃さなかった。 「ごめんね、アオくん。つらいよね。無理に話そうとしなくていいですよ。」 「う…あ、すみません。つ、番を解消されたのは、もっと前です…っう、うう、っはあ……」 アオの異変に、嘉月は看護師に洗面器を用意するように素早く指示した。 　病院特有の洗面器をあてがわれたアオは、すぐに吐いたが、その殆どが胃液であった。 「佐伯さん、しばらくアオくんの背中をさすってあげてください。」 　嘉月は不安そうにする佐伯に言った。 「アオくん、きみはきみが感じている以上に、酷く心も身体も傷ついている。辛い思いをさせてごめんね。話せないことは、沢山時間がかかってもいいんだ。今すぐに話す必要はないから安心してください。」 　アオは嘉月の言葉を聞きながら、つうと涙を流して佐伯に抱きかかえられるような形で持たれ掛かった。 　その後アオは、内診や血液検査、レントゲンなどの一通りの診察を受けた。 ◇◇◇ 　検査結果が出る間に、二人は病院内の喫茶店で昼食を摂ることにした。 　佐伯はナポリタンとサラダのセットにコーヒーを頼んだ。アオは「外でお昼ご飯なんて、久しぶりです。」と言って楽しそうにメニュー表を眺めていた。それから、暫く悩んだ末に決めたのはプリンであった。 「プリンだけでは足りんだろう？」 佐伯が訊ねると、アオは少し悲しそうにして首を横に振った。 「昨日今日で、あまり食欲がないんです。ごめんなさい。」 「無理して食べる必要はないが、そうだな、夕飯はもう少し量を増やそうか。」 佐伯が提案すると、アオは嬉しそうに笑った。 　昼食を終えると、タイミングよく診察室に呼ばれた。しかし、入室は佐伯のみであり、アオには嘉月が呼んだ透が付いて、待ち合い室で待ってもらうことになった。 　嘉月の表情はやや曇っていた。 「正直にお話しすると、検査結果はあまり著しくありません。まず内診の結果ですが、アオくんの身体を考えない度重なる性交渉によって、子宮がかなり傷ついています。肛門から直腸にかけても炎症が見られます。でもこれは一時的なものなので、抗生物質を一週間ほど飲んで治していきましょう。問題は子宮です。出血も見られますし、かなり古い傷も未だに癒えていないようです。このままアオくんがヒートに入り、万が一、佐伯さんと性交渉をすることとなっても、子宮口に届くような深い挿入は厳禁です。」 「それから、カウンセリングで、アオくんがこれまでに受けてきた洗脳とも近い行為から、彼の自尊心は酷く傷つけられていると判断しました。行為を強要するアルファをご主人様と呼んだり、自分のことを卑下するような言葉が多いのも、四年という長い歳月の中で刷り込まれたものでしょう。アルファに怯えたり、時には意識を失い拒絶反応を起こす、日常生活においても震えが止まらなくなるのは、明らかにPTSDの症状です。」 　嘉月は一度、佐伯の様子を伺い呼吸を整えた。 「佐伯さん、こちらが血液検査の結果です。ここのフェロモン値なのですが、番を解消されたこともあり異常な量が検出されています。これがヒートとなれば、アオくんにとって、かなり苦しいものとなるのは火を見るより明らかです。しかし、アオくんは、そのヒートを和らげるアルファをPTSDによって拒絶する可能性が高いです。」 「佐伯さん、これはアオくんと佐伯さんが一緒に乗り越えていく課題となるでしょう。その覚悟は、ありますか？」 　この時、佐伯は、確かに「あります」と応えた。 検査結果により、アオの心も身体も引き裂いたアルファたちを殺してやりたいとさえ思った。 　ただ、今は、アオを一生守っていくと決心したのであった。 　佐伯はまだ、それが、愛であるとは気づいていない。 (第一章 終わり)