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第二章 二人の生活の色

ピピピッ…… アラームの鳴る音が聞こえた。 「ん……」  アオは音を鳴らすスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。液晶は6時ちょうどを映していた。  二ヶ月ほど前に、佐伯に運び込まれたゲストルームがアオの部屋となっていた。遮光カーテンの隙間から、僅かに漏れ出る光をぼんやりと眺めながら、アオは今日の朝食を何にするかを考える。 (昨日作りすぎたトマトソース、今日はスープに使おうかな。それからレタスと冷凍のコーンも余ってるから、ツナ缶とマヨネーズで和えてサラダにしよう。あとは無難に目玉焼きとウィンナーかな。ウィンナーにもトマトソースとブルドックソースを混ぜて味付けしたら、トマトソース使いきれそうだな……)  そこまで考えて、アオはふふっと笑ってしまった。 ほんの数ヶ月前まで、こんな朝を毎日のように迎えられるとは考えてもみなかった。 (以前だったら……僕は……) 「…うぅっ」  アオの視界がぐにゃりと歪む。 そんなことを考えた自分を激しく恨んだ。気づいた時には、そこはやっと自身の部屋だと思い始めたゲストルームではなく、派手な天蓋が垂れた大きなベッドのある寝室になっていた。フラッシュバックであった。 ◇◇◇  いつもご主人様の隣か、寝室の床の上で目覚めた。そして、朝起きてからすることは、朝食の献立を考えることではなかった。ご主人様の寝巻きのスボンと下着を口だけを使ってそっと下げる。そして、僅かに芯を持ったご主人様のペニスに口で奉仕する。ビュクビュクと吐き出された苦い白濁を溢さず全て飲み込み、チロチロと舌先でご主人様のペニスを掃除していると、いい子と言わんばかりに頭を撫でられるのだった。 「おはよう、アオ。お口の中を見せてごらん。」  やっと起きたご主人様が、アオの顎に指をかけ上向かせる。 「んぁっ…」 アオが口を開けると、上顎や頬の粘膜を擦るように節くれだった指が口腔内を犯していく。そして、ご主人様の中指が悪戯に喉奥へと入り込んできた。 「っ…うえ…」 こすこすと喉の奥を撫でられたり、舌を引っ張られたりする。  やっとのことで指を引き抜かれた頃には、じわりと生理的な涙が滲み、閉じられなかった口からは涎がたらりと溢れていく。アオはこの瞬間が酷く惨めに思えて嫌いだった。 「きれいに飲めたね。いい子だよ。さあ、もう行きなさい。」  今日は、ご主人様に朝食の準備をする許しをもらえた。普段はこのまま行為に持ち込まれることの方が多い。 「あ、あの、僕なんかのためにご主人様のミルクを、あ、与えていただき、ありがとうございました。」  初めて身体を繋げた日の夜に、フェラチオやイラマチオをしたらお礼を言うようにと調教された。初めて会った日の夜。あの人は、三人目のご主人様だった気がする。でも顔も思い出せない。 ――ああ、早く朝食の準備をしないと怒られる。  アオは覚束ない足取りで、キッチンへと向かう。 もうそこは、アオを虐げた男たちの家ではないことに、彼は気づけなかった。今のアオの意識は、過去へと引き戻されていた。 ◇◇◇  佐伯は、キッチンの方から漂ってくる微かな焦げ臭い匂いで目を覚ました。  夜中に魘されることの多いアオの声が聞こえやすいように、佐伯は自身の寝室のドアを閉め切らないことにしている。 (料理の腕は抜群だが、失敗することもあるのだな…) 佐伯は、眉根を寄せて「ごめんなさい」と謝るアオを想像して、そのあまりの可愛らしさに心臓が飛び跳ねるような気持ちになった。浮き足立ってキッチンのあるリビングへと向かう。  しかし、現実に見たアオの姿に佐伯は血の気を失い、けれどもすぐに駆け寄った。 「アオ……きみ、一体どうしたんだ?何が怖い?」  身体の震えが収まらないまま、無理して料理をしようとしたのだろう。砕けた皿の破片が床に飛び散っていた。昨夜、照れ臭そうに「作りすぎちゃって…」と言っていたトマトソースは鍋の中に入れられていたが、火はかけられていなかった。しかし、その隣のフライパンには真っ黒に焦げた目玉焼きが、一枚ぼろぼろになって存在していた。 (焦げ臭い匂いは恐らくこれからか…)  佐伯は、大方の見当をつけながら火を止め、アイランドキッチンの隅に蹲って泣いているアオをそっと抱き寄せた。そして、更なる異変に気がついた。 アオが、服を着ないままエプロンを付けていたのだった。  その姿に、アオがこれまでに受けてきた調教の名残りを見つけ、佐伯は顔もわからない権威を振りかざすだけのアルファの男どもに対して怒りを感じた。    しかし、佐伯の腕の中で「ごめんなさい。ごめんなさい。」と泣きじゃくるアオを見たら、それどころではなくなってしまった。この二ヶ月、アオのフラッシュバックへの対応は何となく分かってきた気でいたが、今のようなイレギュラーだと未だに自分の感情が抑えきれなくなることを佐伯は恥じた。 (アオが、この子は苦しんでいるのに……)  佐伯はぎゅっとアオを抱きしめて、彼の背中をぽんぽんとあやすように叩いた。 「アオ、アオ、大丈夫だよ。ここは俺ときみの家だ。何も怖いことなんて起こらなかっただろう。ああ、辛いな。いい、泣いていいから。大丈夫だよ。俺がそばにいる。」 ――俺はきみだけのアルファだから……  暫く声をかけながら抱きしめていると、アオの呼吸が落ち着いてきたのが分かった。そっと顔を覗き込むと、佐伯はアオとようやく目があった。美しい青。 「おはよう、アオ。」 佐伯は微笑んだ。 「お、おはよう、ございます。」 ズッとアオが鼻をすする。 「立ち上がれそうか?」 「う、うん。あの、僕、まだ朝食の準備できてなくて……ごめんなさい……」 また、ぼろっと大きな瞳から涙が零れ落ちた。 「目が溶けてしまいそうだな。今日は一緒に作ろうか。いつもきみに任せきりだったからなあ。」 佐伯がのんびりと答える。その声音にアオも段々と落ち着いてきた。 「アオ、この鍋に火をかけておくから、きみも着替えておいで。風邪を引いてしまったら可哀想だからなあ。」  佐伯はなるべく、アオが傷つかないような言葉を選んだ。それでも羞恥からか顔を真っ赤に染めてしまったアオに、また胸が痛んだ。 ◇◇◇ 「「いただきます」」  佐伯とアオは揃って食卓へついた。部屋の焦げ臭さでアオが再び傷つかないように、佐伯は音が目立つ換気扇ではなく、窓を開けた。白い光がカーテンの中でハレーションを起こし、風とともに部屋へと入ってくる。アオが来た時は、気まぐれに雨が降りどんよりとした空が続く時期であったが、今は夏だ。  もちろんエアコンも付けているが、今日は風も出ていて佐伯にとっては「素晴らしい天気である」日だ。向かいに座るアオにバターをたっぷりと塗ったトーストを差し出す。今日の朝食は、アオが作ろうとしたトマトソースを佐伯も一緒に手伝った。それからアオに言われた通りにサラダを作り、ウィンナーも焼いた。焦げた目玉焼きも二枚作り直した。何故あの時一枚しか目玉焼きがなかったのかは、おおよそ佐伯には予想がついていた。アオは、あの時、ご主人様の朝食を作ろうとしていたのだろう。  アオがこの家に来たばかりの頃に、そっと佐伯の寝台に上り、佐伯の下半身に顔を埋めながら「僕に朝ごはんのミルクをください。」と震える声で所望した事は、佐伯にとっての事件であった。 「あ、いつもバターがたっぷりで幸せなトーストですね。」  佐伯は、アオの少し掠れたハスキーな声で、現実に引き戻される。 「ああ、これは俺のこだわりなんだ。」 「こだわり…?」 「昔、高校生の時だ。気持ち的には剣道一筋ではあったが、俺は色々と部活を掛け持ちしていてね。大体毎日朝練だらけで、家を出る時間がとても早かった。」 「それは、大変そうですね」  アオは佐伯の先の読めない話に、少し困惑したような表情を浮かべていた。そんなアオを見て、佐伯は目を細めて微笑んだ。 「ただ、テスト期間に入ると部活が休みになるから、俺はいつもよりのんびりと家を出られた。それで、今までは急いて気付きもしなかった喫茶店を見つけたんだ。そこはガラス越しに客のサラリーマンなんかがモーニングを食べたりしていて、俺はなんとなくその様子を見つめてしまった。それが間違いだった。」 佐伯は大袈裟に眉を顰めて、アオにずいっと顔を近づけた。 「な、何が間違いだったの…?」 子どものようにアオが訊ねる。 「その客はな、焼きたてのトーストの端から端までたっぷりとバターを塗りたくっていたんだ。朝食は必ず家で食べていたんだが、俺は一瞬で腹が減った。 ……まあ、とにかくそれ以降、俺はトーストにはたっぷりとバターを塗るんだ。最初は憧れ、今はこだわり。」  佐伯がふっと笑うと、アオもつられてクスクスと笑った。  それが、二人の朝。

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