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二人の生活の色 2
夏も終わる頃、今日は佐伯の担当編集者の青木が訪れていた。アオは青木とはこれまでにも何度か会っている。それもそのはず、佐伯は既に新作の連載を抱えていて、締め切り地獄の真っ只中であるからだ。
アオにとって佐伯は、いつも大人な余裕がありすぐに不安になってしまう自分を優しく抱きとめてくれるような男だった。そんな男が、青木を見ると少し戯けて彼に怒られる姿を目撃した時は、アオはやや拍子抜けしたとともに安心した。
(佐伯さんも人間だよな、やっぱり。)
「いや〜、アオくんが居てくれて本当に助かってますよ。」
リビングで青木に冷たい麦茶を出すと、彼はそれをゴクゴクと飲み干して言った。
「え……どうしてですか?」
アオが疑問に思って訊ねると、青木はそのくるくるとした目で、器用にウィンクをして見せた。
「佐伯先生の顔色がとてもいい。それに、以前にまして表情が増えたというか、人間味が増したというか」
「佐伯さんは、青木さんが来るから、いつもお茶目になって、その人間味が増しているように僕には思えますが……」
アオが言うと、青木はぶんぶんと首を横に振った。
「そんな事はないですよ。あの人、皮肉っぽく俺を揶揄うことは確かにあったけど、あんな、穏やかな顔をするようになったのは、アオくんが来てくれてからです。」
「そ、そうですかね……」
「それに」
「それに?」
「締め切りを厳守してくれるようになった!いや〜はじめは霰でも降ってくるのかと思いましたよ〜」
「ほぉ、随分と楽しそうだな。」
突然、背後から聞こえてきた佐伯の声に、青木がびくっと身体を跳ねさせた。アオは途中から、佐伯がリビングへと入ってくる姿を横目に確認していたので、青木が「霰でも降ってくる」と言い出した時には冷や冷やとしていた。
「せ、先生。いつからそこに?」
「おまえが俺が毎度毎度締め切りを守らないので腹切りでもしようかと思っていた、と言っていた所からかな?」
「そんな事、俺は一言も言っていませんからね!」
「待たせたな。原稿だ。」
佐伯が青木に原稿用紙の束を渡す。
「いーえー。アオくんが来るまでは、待てども待てども原稿が来る事はなかったので、今は腹切りしなかった自分を褒め称えてやりたいくらいですよ。」
青木の思わぬ切り返しに、佐伯が苦笑する姿を見て、アオもふふっと笑ってしまった。
「じゃあ、確認次第、また連絡いたしますので。」
佐伯から受け取った原稿を丁寧に封筒の中にしまうと、青木は慌ただしく去っていった。
◇◇◇
「青木さん、忙しそうでしたね。」
アオはリビングで佐伯とアイスコーヒーを飲んでいる。いつも二人で食卓を囲むテーブルで、さっきまで青木が麦茶を飲んでいた。今はいつも通り、佐伯と二人きり。
「あいつは、青木は優秀だからな。俺以外にも売れっ子の作家を何人も抱えている。あいつに見限られたら、作家人生も終わりって考えてもいいかもな。」
佐伯が冗談を交えて微笑み、それから少し顔をしかめて続けた。
「アオ、きみ、ずっとリビングにいる必要はないんだぞ。自室で好きなことをしていて構わないんだ。」
確かに、佐伯が言うようにアオは寝る時以外はずっとリビングとアイランドキッチンを行き来している。掃除だって毎日していれば、取り立てて時間が掛かることもない。佐伯は自身が書斎に籠もって仕事をしている間の、アオの生活を気にかけているようだった。リビングに置いてあるテレビを見ている気配もない。
「いえ、僕はここで先生が、あ、佐伯さんが、ふらりと息抜きに来てくれることが楽しみなんです。何よりも。」
アオは佐伯のことを、もう「先生」と呼ばない。アオがかつて「ご主人様」と呼んでいた男たちも「先生」と呼ばれる者たちであった。佐伯は何となくそのことに嫌悪感を抱いていた。だからこそ、これからは一緒に住む者なのだから二人とも対等であるべきだ、と半ばアオを丸め込み名前で呼ぶように伝えた。アオは最初こそ動揺していたようだったが、なんとか苗字呼びにまで落ち着いてくれた。
(いつかは雅史と呼んで欲しいものだな……)
脳裏に浮かんだ邪心を追い払うように、佐伯はふっと息を吐いた。
「そうか、アオがそう思ってくれているのなら良いんだが。夕方、少し涼しくなったら散歩にでも行くか。それから昼食と夕飯は一緒に作ろう。」
「いいんですか?そのお仕事とか、僕にお気遣いなさっているのなら……」
「いいや、俺がアオと一緒にいたいんだよ。しばらく書斎に篭りっきりだったし、青木に原稿も無事に渡せたしな。今日は、もう仕事はやらんよ。」
「そ、そうですか。僕も、佐伯さんと一緒にいられて嬉しい…」
アオの真っ白な肌が薄く色づき、俯いたことで薄藍の瞳が長い睫毛に隠れる様を見て、佐伯は無性にアオを抱きしめたくなった。
遠くの方でジワジワと蝉の鳴く声が聞こえる。
「どう頑張ってもちっぽけな時間しか生きられないのだから。今日はなるべく丁寧に生きようと思った。ホットチョコレートを飲むこと。歌を歌うこと。いっぱい泣くこと。哀しんでいるきみごと愛すること。」
佐伯の口から思わず出た言葉は、かつて佐伯自身が書いた小説の一編であった。あの時は、ただ無気力に筆が動くままに書いていただけであった。けれども、今は違う。今なら、自分が生み出した主人公の想いが分かる。
(俺は、アオを愛している。)
「リンドウ、リンドウ、リンドウ、痛いくらいの瑠璃紺色。あなたとともに明日を見てみたい。」
アオが佐伯の目を真っ直ぐ見て続けた。
「……アオ、きみはやはり佐伯雅史の熱烈なファンだな。」
やや気恥ずかしい雰囲気になってしまったので、佐伯はそれを打ち消すように戯けてみせた。けれども、アオは真剣な眼差しで佐伯を見つめていた。
「佐伯さんの小説は、いつも写実的な描写が多いのに、この一節だけは詩的だったから、だから覚えています。」
「……そうか」
アオが佐伯の手をとった。それは雪のような肌と同じように冷たかった。
「佐伯さん。佐伯さんの今の言葉は、僕にくれたもの?」
佐伯はアオの手を温めるように強く握り返した。
「そうだ。アオ、きみに受け取ってもらいたい言葉だ。きみを、愛してる。」
手の甲に水滴の落ちる感触がしたと思ったら、アオが静かに涙を流していた。
「佐伯さん、僕も、僕もあなたといると心が暖かくなります。僕も、許されることならば、あなたと一緒にいたい……」
遠くの方でジワジワと蝉の鳴く声が聞こえる。
ただ一匹、孤独に生き遅れた蝉が、鳴いている。
◇◇◇
「……土砂降りだな」
昼間の天気と打って変わって、外は激しい夕立ちである。佐伯は手早くスマートフォンで天気を確認した。どうやら雨は明日の昼ごろまで続くらしい。
「雨足は今よりかは弱まるだろうが、止みはしないらしい。…買い出しに行くか?」
「そうですね。もう少し弱くなったら行きたいです。」
カーテン越しから空を見上げ、ぼんやりとアオが言った。
昼間の一件から、目に見えてアオの元気がない。佐伯の心は、今の空模様のように曇っていった。
「アオ、何か不安なことでもあるのか?」
佐伯はアオのことを、背後から腕の中に留めるように優しく抱きしめた。
「……いいえ、何も。多分、佐伯さんに愛してもらってるって実感したら、なんだかふわふわしてしまって。」
アオは佐伯の腕の中で、向き合うように身体を動かし、控えめに佐伯の背中に腕をまわした。
「そうか、何もなければいいんだが…」
(自分も愛しているとは言ってくれなかった……)
佐伯は腕の中のアオをぎゅっと抱きしめ、そんなことを考えていた。
数日分の買い出しを終え、荷物を佐伯の車に乗せている時だった。
ドサッ
重たくなったビニール袋が落ちる音がした。
佐伯が音のした方を見やると、アオが茫然としたまま立ち尽くしていた。
「アオ、大丈夫か?」
佐伯が駆け寄っても、アオはその呼びかけには応えず、ぼんやりと何処かを見つめていた。
佐伯もアオの向ける視線の方へ目を向けると、そこには20代半ばくらいの男女が歩いていた。よく見れば、女性の方はまだ小さな赤ん坊を抱えている。親子だろうか。その女性の旦那であろう男は、左手に買い物袋を下げ、右手には大きな濃紺の傘を妻と妻が抱える子どもが濡れないように傾けていた。
(あの男、どこかで……)
佐伯が自身の記憶を手繰り寄せようとした時だった。
「幸せそう……よかった、紫音……」
蚊の鳴くような声でアオが呟いた。
そして、下腹部を抑えるように崩れ落ちた。
「……っ!!アオ!!!!!!」
「いたい…いたい…ごめんなさい、ごめんなさいっ
……ミドリ、ごめんね…痛いよぉ…助けて…」
ぷつりと糸が切れた人形のようにアオは意識を失った。
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