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熱と金木犀

 病院独特な消毒液の匂いがつんと鼻に響く。  佐伯は倒れたアオを嘉月の元へと運んだ。 今は、安定剤を点滴で落とされ、すやすやと眠っている。しかし、その顔色は酷く悪い。 (この子が倒れるたびに、心臓が保たんな。) 佐伯は柔らかなアオの髪を撫でた。  病室からは外の激しい雨の音が、絶え間なく聞こえた。 コンコンッ  個室の扉をノックする音が、遠慮気味に響いた。 「どうぞ」と佐伯が入室を促すと嘉月が入ってきた。 「佐伯さん、ちょっといいですか?」  嘉月が小声で、診察結果を佐伯に伝えたいと言った。 「大丈夫です。佐伯さんがいない間は、透くんに傍にいてもらいますから。」  嘉月が佐伯の不安を読み取ったように告げる。扉の外には透が控えていた。佐伯は嘉月の心遣いと、透に礼を言い、嘉月とともに別室へと向かった。 ◇◇◇ 「佐伯さんがおしゃっていたので、臓器の検査も一通り行ったのですが、特に問題はありませんでした。三ヶ月ほど前は、無理な性交渉によって炎症を起こしていた箇所も完治しています。」 「そうですか……」 「考えられるとしたら、やはりPTSDによるフラッシュバックかと。何かアオくんが誘発されるような出来事とかはありませんでしたか?」 (俺が愛しているなんて言ったからか?) 事実、その後からアオの元気がなくなっていた。 (そういえば、あの時アオは……)  佐伯は逡巡の末、口を開いた。 「アオが倒れる前に、スーパーの駐車場で若い夫婦とその子どもを見て、呟いたんです。幸せそうでよかった、と。それから、紫音という名前を読んでいました。それで、今思い出したのですが、アオと俺が見た、その夫婦の夫の方なんですが、ピアニストの高槻紫音(タカツキ シオン)だったような気がします。」 「あの、高槻紫音ですか……?」  嘉月も驚いた様子であった。それもそのはず、高槻紫音とは世界的にも有名なピアニストである。その甘いマスクにより、数々のメディアにも露出しており、音楽にあまり明るくない佐伯ですら知っている。 「それから、腹を抑えて苦しんでいる時に、ミドリという名前を呼んで謝罪を繰り返していました。」 「そうですか…。うーん、このことはアオくん本人から聞かないと分かりそうにありませんね。」 嘉月が申し訳なさそうに眉根を寄せた。 「嘉月先生、これは私事なのですが、俺はアオを愛しています。初めて会った時から、多分、一目惚れでした。正直に言うと、これが愛するという感情であることも、今日初めて、自分の口から自然と出てきて知ったくらいです。けれども、今は、不安でいっぱいです。アオに愛していると伝えたら、アオは喜んでくれていたような気がしました。しかし、アオは俺を同じように愛しているとは言ってくれませんでした。それどころか、どんどん思い詰めた顔をして元気がなくなってしまって……アオがこんな風に倒れてしまったのも、俺が原因なのかもしれません。」  暫しの沈黙の後に、嘉月がゆったりとした口調で話し始めた。 「生けられた花は水を与えなければ枯れてしまいます。けれども、豊かな土壌と適切な水があれば、美しく花開きます。これは自論に過ぎませんが、愛も同じようなものだと私は思います。アオくんは、これまでのことで酷く弱ってしまいましたが、佐伯さんが愛を注ぎ続ければ、いずれ美しく立ち直ることができるでしょう。私は、人が人を愛する気持ちに、正解や不正解はないと思います。佐伯さん、どうかアオくんに無限の愛を捧げてください。いつか、アオくんも愛されること愛すること、しっかりと受け止めることができるようになると思います。佐伯さん、あなたも誰かを心の底から愛することが初めてなのでしょうが、アオくんと、どうか二人で歩んで行ってください。」 嘉月は優しく微笑んだ。 ◇◇◇ アオ……アオ……きみを愛している。 愛しているんだ。  大好きな低音が聞こえる。 アオ、愛している。 (嬉しい…でも僕は、僕には愛される資格なんてないんだ。だって僕は、ミドリを殺したから。ごめんね、おまえを愛していたのに、僕は……) 「……ミ……ドリ」  目を覚ますと知らない天井が見えた。消毒液の匂いが鼻腔をかするので、何となく病院なのかもしれないとアオは思った。    はぁっと吐いた息は酷く熱いものだった。 (熱い、風邪、引いたかな…) よくまわらない頭でそんなことを考えていると、ドロリと後孔から何かが垂れた。 「…っあ、う、そ」 その感覚をアオは痛いほど知っていた。  発情期(ヒート)だ。 「……アオ、どうした?」  佐伯が目覚めると、個室に金木犀の香りが充満していた。 ――この香りは、アオのフェロモン……!  初めてアオと出会った時も、金木犀の香りがアオから漂っていた。嘉月曰く、あの時のアオも発情期(ヒート)を終えたばかりでその残り香を纏っていたらしい。 (そういえば、アオと出会って三ヶ月くらいになるな…)  発情期(ヒート)のサイクルが巡って来たのだろう、あの時の何十倍にも強い香りに正気を失いそうになりながらも、佐伯は思った。 「んっ…はあ…あ、いやぁだ…あ、あ…」  アオは泣きながら、自身の指を後孔に抜き差しして、オメガ特有の小さなペニスをもう片方の手でぎこちなく扱き始めた。  ぶわりと金木犀の香りが溢れ出す。 「っ……!!!!」 佐伯はアオに掴みかかって、その頸に噛みつこうとする自身の本能を必死で抑えた。  そして、枕元にあるナースコールを押した。  アオの病室に駆け込んだ嘉月と透が見たものは、ベッドの上で激しく身悶えるアオの姿と、自身の手の甲に噛みつき口元を鮮血で汚した佐伯の姿であった。 ◇◇◇  アオが発情期(ヒート)に入って五日が経過した午後であった。病院から佐伯の自宅へと電話がかかってきた。  佐伯は、自身の手に噛み付いた日、怪我の治療を受けてから念のためと自宅へと帰された。アオの治療には同じオメガである嘉月と透があたるようだった。  電話に出ると、相手は一色であった。 「佐伯、今すぐ病院に来てもらえないか?アオくんの容態を看ている透が、アオくんの衰弱が激しいから佐伯に傍にいて欲しいって。嘉月も、おまえが傍に居た方がいいって言ってる。あの二人、今もアオくんを落ち着かせるために色々と行動してくれているんだが、あまり効果がなくてな……」  だから一色が電話をして来たのだろう。 「一色、おまえも忙しいのにすまない。分かった。すぐに向かう。ただ、俺もアオの前で本能を抑えることは無理だと思う。本当に行って大丈夫なのか?」 「ああ、嘉月が、おまえが来てアオくんが酷く拒絶反応を起こすようだったら引き離す、と。ただ、そうじゃなかったら、そういった行為に及んでもいいと言っていた。部屋も番専用の個室にしたから、心配はいらない。」 「……そうか。わかった。」  佐伯は電話を切ると、病院へ向かう支度を整え車を走らせた。  案内された病棟へ駆け込むと透がいた。 「すみません、佐伯さん。今は嘉月先生がアオくんを看ているんだけど、アオくん、もう結構限界かも……」 透が険しい顔をしたまま、佐伯にアオの容態を伝えていく。 「不躾な話で申し訳ないんだけど、発情期(ヒート)を迎えたオメガに一番効くのがアルファの体液だから。だから、佐伯さんならアオくんもきっと拒絶しないだろうって、嘉月先生と僕が今回の行為を提案した。」 「わかった。透くん、ありがとう。嘉月先生にも伝えておいてほしい。」 「ん、中に色々と揃っているから、落ち着いたらナースコールして。」 そう言うと透は、アオのいる病室のドアを開いた。  病室はしっかりと防音されていたのだろう、ドアを開けた途端、アオの叫び声が響き渡った。 「ぃやだぁぁあああぁあぁっ!!!!!!!……ん、ふぅ…ミドリ、ミドリ、ご、ごめん…ね…ぁあ、あ、あ、っ、っ、んぅ……」  白いシーツはアオの様々な体液でぐしゃぐしゃになり、その上にいるアオもぼろぼろになっていた。目を真っ赤にして、下唇は歯を立てて性衝動を堪えたのか、歯形がくっきりとつき、血が滲んでいた。喉も痛めたのだろう、叫び声はガラガラだった。  アオを宥めていた嘉月が佐伯に気が付き、こくりと肯いた。佐伯がそれに目で応えると、嘉月は部屋を後にした。 ◇◇◇ 「アオ、アオ、俺だ。分かるか。」  ベッドの上で暴れるアオをしっかりと抱きとめて、佐伯もアオとともに横になる。 「んっ…ふぅ…あ、あ、うあ…ん、あぁああぁ…」 アオがグズグズと泣いている。 「アオ、そんなに泣くと目が溶けてしまうぞ。」 「う、あ、さ、さえき、さ、っ…あ、あぁ」 「そうだ、俺だ。すまない、一人にして」 「ん、ぅん、あ、さえき、さんっ、つらい、つらいよぉ、っ、っ、ぼ、く、もう、いやだぁあああ」 「アオ、辛かったな。もう大丈夫だ、俺が傍にいるから。アオ、きみを救うために、俺がきみを抱いてもいいか?」 「っ、だ、だめだよ、ぼく、きたないから、お、おめがだから、いんらん…だよ…」  アオが佐伯の腕の中から逃げようと身動いだ。 佐伯はそんなアオの小さな抵抗を、更にきつく抱きしめることで防いだ。 「アオ、きみは汚くない。とても高潔で美しい。愛しているよ、アオ」 佐伯はアオに囁くと、その柔らかい耳朶をぺろりと舐めた。  その刺激で、ぴくりとアオは震えた。小さな性器からは、とろりと白濁が漏れ出ていた。

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