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光サイド-1-

 志野原(しのはら)(みつぐ)の名前は入学当初から耳にしていた。  彼に関する噂は様々なものであったが、噂というものは人から人へ伝わる度に人の悪意や希望などを取り込み、原型を留めていない事が多い。  だから、どんな噂を耳にしても話半分以下程度に聞いていた。  そんな校内一の有名人を見つける事は難しくはなかった。  彼が動けば女生徒はおろか男子生徒もざわつくため、人に埋もれ、姿を確認する事は出来なくとも、居る事は分かったから。  どんな人なんだろうと一応気にはなったが、用もないのに近付くのもどうだろうかと思い、見に行く事はしなかった。  同じ学校に通っているのだからそのうち廊下か何処かで擦れ違えるだろうと、その程度にしか思っていた。  正直、その時はまだ彼の存在は瑣末な問題でしかなかったから。  入学してから一ヶ月が過ぎた頃、俺は体育の授業で右肘を擦り剥いてしまい保健室に足を運ぶ事になった。  一階に設けられたそこは薬品臭が漂う一種独特の雰囲気を持った空間は、嫌厭し避けるか、居つくかのどちらかになる。  中学生時代は保健室には何時でも生徒がいたものだが、高校となるとそれが変わるのか、それともたまたまなのか、入室してみると生徒は一人もおらず、保険医の春賀【はるか】先生がのんびりとお茶をすすっていた。  五十代のベテラン保険医さんは人の良さそうな笑顔を浮かべ、手際良く治療をしてくれた。  すると、背後から扉の開く音がした。  入室者を確認するため、春賀先生は治療の手を一旦休め、扉へ視線を向けた。  先生はちょっと困ったように微笑み、入室者に声をかけた。 「志野原さん、あなたまた来たのね」  聞き覚えのある名前に、俺は弾かれたように振り向いた。  保健室の出入り口にダルそうに立っている人物を見て、愕然とした。  この人が……。  志野原貢……?  ずっと会いたいと切望していた人との思いがけない再会に、俺は息をするのも忘れ、ただただ目の前の人から目を放せずにいた。  色素の薄い鳶色の髪と瞳。  整った一つ一つのパーツの中で一番印象的な切れ長の瞳が、俺をあの夜へと戻した。  そう、あの人に出会った二年程前の夜に……。  二年前。  当時14歳だった俺は、表立ってバイトをする事は出来なかったため、店の手伝いをして小遣いを稼いでいた。  その日は叔父が経営しているクラブに酒を卸しに兄の竜也《たつや》と向かっていた。  裏口から酒瓶の入ったケースを運んでいると、奥から叔父の竜三《りゅうぞう》が現れた。 「お前達~v」  上機嫌な声で言い満面の笑みを浮かべながら、両手を広げて近寄って来た。  俺と竜也兄さんは訳が分からず、顔を見合わせた。 「いい所に来てくれたよ! これぞ天の助けと言うものだな。僕は日頃の行いがいいからね、神様はちゃんと知っているんだv」  叔父の扱いに慣れた俺達は、一人で盛り上がっている叔父をそのまま放置し、ケースを厨房の方へ運んだ。 「酒も入っていないのに、なんであんなに何時もテンション高いんだろうな、あのオッサン……」  竜也兄さんは軽く笑いながら言った。 「何時も楽しそうで良いよね」  俺達が笑っていると、叔父は何かを手に抱えて近付いてきた。 「こんな所にいたのか、ほら、コレ」  差し出されたモノは衣服だった。 「なんですかコレ?」 「何って、コレが野菜や果物に見えるのか?」  いや……そうではなく。  差し出されたモノが野菜でも果物でもなく衣服で、しかもこの店の制服だという事は見れば分かる。  何故店の制服を俺達に差し出したのか、それが知りたかったのだが……。  察するに店を手伝ってくれと言う事なんだろうが、真意の程を知りたいのだと叔父に言った。 「お前は相変わらず感が良いね。その通りだ」  叔父は実に嬉しそうにニコニコ微笑んでいる。  聞けば今日は従業員が風邪やインフルエンザで半分の人数に減り、困っていると言う事だった。 「配達はここで終わりだから俺はいいけど、光のやつはまだ中坊だぜ。いいのかよ労動基準法とか……」 「何言ってんだ。子供が家の手伝いをするのは当たり前だろう?」  俺達は何時から叔父さん家の子供になったんだろうかと、竜也兄さんと顔を見合わせた。 「父に断りを入れておかないと……」 「兄貴には俺の方から電話しておくから、お前達は早く着替えた! 着替えた!」  急かされ俺達は更衣室に行き、渋々着替え始めた。  白いシャツに黒いネクタイ、ベスト、ズボン、ロングエプロン一見ギャルソン風の制服に身を包むと見慣れない自分の姿に違和感を感じた。  鏡の前で考え込むようにして自分の姿を見ていると、竜也兄さんはからかうように「バーカ、自分に見とれてんなよ!」笑いながら言って、先に更衣室を出て行った。  追いかけるように俺も更衣室から出た。 「待ってよ!」  歩を速めて竜也兄さんの隣に並んだ。 「別に見惚れていたわけじゃないよ」 「そうかよ」  竜也兄さんは小さな子供がやった他愛も無い失敗を見て、微笑む親のような表情で俺を見た。  兄さんは俺に対してよくこの表情を見せる。  その度に俺は兄さんの中で何時まで経っても小さな子供のままなんだなと思う。  初めて会った6歳の時のままだと……。  そんな事を考えているとフロアに出る扉の前まで来ていた。  竜也兄さんは重量のある重い扉を軽々と開け、音の洪水に飲み込まれた。  俺もそれに続いた。  薄暗いフロアに一歩足を踏み入れると眩暈がした。  聴覚の正常を奪う大音量の渦。  色々な人間の吸っているタバコの煙。  フロアに充満している人の匂い。  空気が淀んでいるように感じた。  俺には向かない場所だな……。  そう思いながら叔父の姿を探すため、フロアをグルリと見回した。  あれ?  何かが引っかかった。  気になった方を凝視すると、沢山の人の中で目を引く人物がいた。  店内は暗く顔はよく見えないが、目が奪われた。  釘付けになっている俺の耳元で竜也兄さんは「華のある奴だな」と言った。  確かにその通りだった。  その人の周りだけ空気が違って見えた。  トップスターと呼ばれる人達が持つオーラみたいなものを発しているんだろうと思う。  騙し絵のようにその人だけが浮き上がっているようだ。  俺は叔父さんを探す事もせずに、ただただその人を見続けた。  右腕の袖が引っ張られ、反射的にそっちに向くと、兄さんは叔父の居る方向を指し示した。  俺はあの人から目線を外し、叔父の居るカウンターの方へ向かった。  フロアと違ってカウンター付近はライトをちゃんと当てていたので人の顔を識別するには十分な明るさだった。  音もフロアに比べれば静かなもので、会話は何とか聞き取れる。  俺と兄さんは酒屋の息子なだけあって酒の名前はそれなりに知っているが、臨時の素人バイトにカクテルを作る事が出来るはずもなく、俺はとりあえず氷を砕く係り。竜也兄さんにウエイター係りが言い渡された。  必死に氷を砕いていると「氷!」と呼ばれ、手元を見ていた目を上げるとカウンターの席にあの人が座っていた。  胸が高鳴った。  さっきは暗がりで距離も何メートルかあったのでよく見えなかったが、近くで見ると綺麗な人だった。  髪が長く、線が細いので女性のようにも見えるが、多分男の人だろう。  眼も髪も色素が薄く、軟らかいと言うよりも儚い印象を受けた。 「氷!!」  呼ばれて慌てて俺は氷を手渡した。  振り返り再びあの人へ視線を戻すと、三人の女性に囲まれていた。  三人とも眼のやり場に困るような露出度の高い服を着ている。  あの人に好意を持っているのだろう。  気を引こうと一生懸命話し掛けている。  相槌を打つどころか目すら合わせない。  ピクリとも動かない表情。  何の音も耳に届かないというように、ただ遠くを見つめた目は芸術品としてはとても綺麗なモノだろうが、人としては寂しい感じがした。  持ち場へ戻ろうと、あの人の前を通り過ぎた。 「……四人で……ね? いいでしょ?」  何かを交渉しているようだった。  持ち場に戻りまた、氷を砕いているとあの人は席を立った。  あの人の向かう先を目で追うと、トイレのある方だった。  あの人がいなくなると3人の女性は、あの人の抜けたスペースを埋めるように身体を寄せ合いながら話し始めた。 「今日、シノお持ち帰り出来ると思う?」 「絶対する!!」 「シノとH出来たら自慢出来るよねv」  俺は自分の耳を疑った。  シノと呼ばれているあの人と女性たちが交渉していたのは、四人で行為に及ぶかどうかという事だったらしい。  しかも理由が自慢する為だと言う。  自分達を着飾る宝石やブランド品のようにシノさんを見ている。  だからなのか?  最初シノさんを見た時も、今さっきも人に囲まれながらもあの人が寂しく見えたのは……。  シノさんもきっと気付いているのだ。  自分がどういう風に思われているか……。  シノさんはトイレから戻るともと、元の席に座りカクテルを注文した。  ただ飲み物を飲んでいるだけで絵になる人がいるんだと感心した。  何気ない仕草の一つ一つが洗練された動きのようで、カッコよかった。  俺がシノさんに見惚れていると、甲高い女性の悲鳴と物が落ちる音がした。  フロア中に鳴り響いていた音楽は止まり静まり返っている中、男が一人床に片腕をついて倒れていた。  その男の真正面には、いきり立った男が従業員に腕を捕まれていた。 「離せよ! クソッ!! ぶっ殺すぞ!!」  相当頭に血が上っているらしく、大声で喚き散らしている。  従業員の腕から自分の腕を引き抜こうと暴れているのを見て、俺も手伝わなくてはと思いそちらの方に行こうと一歩踏み出した時だった。 「やめろ!!」  よく通る声が男を静止した。 「うるせぇ!! 誰だぁぁぁ!!」  男は反発したが声の主を見たとたん大人しくなった。 「シノ……」  声の主はそれまでの儚い印象とは違い、力強い絶対者のような風格があった。  誰も彼には逆らえない。そんな空気が張り詰めていた。  怒りで我を忘れていた男の身体から力が抜けていくのが分かった。  人を従えさせるだけの力がシノさんにはあるのだと驚いた。  一見女性に見間違えてしまうような線の細い人なのに……。 「離せよ」  声のトーンからもう暴れる様子はないと判断した従業員達は男の腕を離した。  腕を解放された男は「クソッ!」と吐き捨てながら出口へ歩いて行った。  倒れていた男のもとに友人らしき人間が近寄り男を立たせた。  それをきっかけにそれまで止んでいた音楽が降り始め、張り詰めていた空気は和らぎ、出て行った男以外は皆もとに戻ったように思えた。  シノさんはカウンターの席に座り直した。  彼の周りを包んでいる空気だけはまだ張り詰めたままだった。  炎のような人だと思った。赤ではなく蒼い……。 「光くん!」  ハッとして声のした方を見ると叔父が手招きしている。 「なんですか?」 「コレあちらの彼に」  目で相手を指した。  シノさんに? 「場を静めてくれたお礼だよ」  見れば渡されたカクテルはシノさんが何度か注文していたものだった。  言われた通りにシノさんにカクテルを運びお礼を言った。  シノさんはこちらを見ようともせずに「ああ」と返事をしただけだった。  もとの作業に戻ろうとした時だった。  シノさんが胸のポケットからタバコを取り出し咥えたので思わず手が出てしまった。  しまった!  そう思った時は既に遅かった。  シノさんの口からタバコを奪っていた。 「何だよ?」 「タバコとお酒を一緒にやると身体に悪いです」  つい言ってしまった。  余計なお世話だと分かっていたが、どう見てもシノさんは俺とたいして年が離れているようには見えなかった。  成長期に酒もタバコよくないし、両方を一変にするのは身体に大変悪い。  そんな事俺が言わなくても分かっているはずだ。  分かっててそうしている人間に当たり前の事を言った。  怒っただろうか? 「知っているよ……」  静かな声だったが、この大音量の中でもしっかり聞き取れた。  シノさんとと目が合った。  色の薄い瞳が俺を映している。  シノさんに見られていると思ったら、急に呼吸の仕方を忘れたかのように息苦しくなる。  ドギマギしてシノさんから目をそらすと、その一瞬の隙を突いてタバコを奪い取ろうと手が伸びてきた。 「駄目です。タバコなんか止めて下さい」 「それ吸っていると気分が落ち着くんだ」 「気分が落ち着こうが、ハイな気分になろうが、こんなものは百害あって一利なしです! 吸っちゃ駄目です!!」  俺が熱く説いていると女性の声が割って入って来た。 「ちょっと! 店員が客になに説教たれてんのよ!!」  見ればさっきシノさんと交渉していた三人のうちの一人だった。  確かにこの人の言う通りだった。  俺は今この店の店員で、お客様であるシノさんに店内でのマナー以外で注意をするべきではない事は分かっている。  でも……。 「オイ、俺は今コイツと話をしているんだ余計な口挟むなよ」  シノさんに窘められ女性は驚いていた。  それはそうだろう。  女性はシノさんを庇ったのに、感謝されるはずが逆に怒られてしまったのだから。  女性は「何よ!」と吐き捨てるように言ってその場から離れた。 「それで?」 「えっ?」 「もう終わりか?」  この人は……叱られたいのだろうか?  俺はニコチンの悪害性とアルコールの多量摂取の危険性を説いて聞かせた。  シノさんは何故か嬉しそうに、俺の話を聞いていた。 「光、時間だ上がるぞ」  兄さんに言われて初めて日付が変わっている事に気が付いた。  今日は土曜日で明日は休みだったが、叔父は中学生と高校生を明け方まで働かせる事をよしとは思わなかったようだ。 「すみません。もう、上がる時間なんで……」  そう告げると「なら俺も帰るかな」そう言ってシノさん席を立った。  レジで清算を済ませ出て行く後姿を見送った後、何気なくシノさんが座っていた席に目をやった。  タバコとジッポが置き去りにされていた。  タバコは兎も角、ジッポはシリアルナンバーが入っている。  大切な物かも知れない。  そう思いシノさんの後を追いかけた。  フロアと廊下を遮る重い扉を開け、シノさんの姿を探した。  丁度廊下の角を曲がる人影が見え、急いで曲がり角に向かって走った。  角を曲がるとシノさんの姿が見えた。 「待って! シノさん!!」  名前を呼ばれてシノさんは足を止め、ゆっくりとこちらに振り向いた。  カウンターに居る時は段差などがありよく分からなかったが、シノさんは俺よりもずっと背が高かった。  百八十センチくらいはあるだろうか?  俺は傍に駆け寄りジッポを差し出した。 「ああ、コレもういらないんだ」 「えっ? でもコレ結構高価なものでしょ?」 「もう止めるから」 「え?」 「タバコは身体によくないんだろ?」 「はい!」  もしかして、俺の話を聞いて禁煙する気になってくれたのだろうか? 「よかったらお前にやるよ」 「頂けませんよ!!」 「要らなければ捨てればいい」 「じゃあな」  シノさんは踵を返そうとした。 「アルコールの量も控えて下さいね!」  俺にそう言われてシノさんは俺に向き直った。 「変な店員だな」  そう言って、右手で俺の額から前髪をどかした。  シノさんが近付いてくる。  思った次の瞬間、額に軟らかい感触があった。  自分に何が起こっているのか分からなかった。  額にキスされているのだと自覚するまで時間がかかった。  シノさんが俺から離れたと同時に心臓が急激に早鐘を打ち始めた。 「有難うな」  それまで無表情だったシノさんが優しく微笑んだのを見て、俺は力が抜けた。  シノさんが踵を返したと同時に、俺はその場に崩れるように座り込んでいた。  シノさんの背中が遠くなっていくにもかかわらず、俺の心臓は何時までもうるさいままだった。  その日以来叔父のクラブに酒を卸す度に店内を覗いて見たが、シノさんの姿を見つける事は出来なかった。  あの人の目や鼻や口、髪の毛の細部に至るまですべてが残像として強く焼き付き、頭から離れない。  もう一度会って話をしたい。  彼に近い存在になりたい。  そんな事を願うようになっていたが、結局二度と叔父の店でシノさんに会う事はなかった。  そして二年の月日が経った。

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