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光サイド-7-
「顔を上げて下さい」
弾かれたように顔を上げた昭島さんと目が合った。
「俺は先ぱ……貢さんを助ける為なら何でもしたいと思っています。あの人が危うい状態だと分かっています。でも……俺は何も知らないんです。あの人が、何故ああなってしまったのか……だから何も出来なくて困っています。何でもいいから知っている事があれば教えて下さい!」
『お願いします』今度は俺が頭を下げて頼んだ。
少し合ってから「何処から話したらいいでしょうか」と、独り言のように呟いた。
そんな昭島さんに苛立ちを覚えたのか、それまで隣り合わせに座っていた晃さんは昭島さんの背中に背中を合わせて寄りかかりながら急かすように「最初っから全部話せば?」と言った。
昭島さんは視線を右下に下ろし眉間に少し皺を作った。
古い記憶を引き出しているのだろうか?
少しの間があってから。
「少し長くなりますが宜しいでしょうか?」
低く落ち着いた声の主は丁寧な口調で訊ねて来た。
俺は「はい」と返事を返し居住まいを正した。
「今から十二年前の十二月でした。
志野原社長……つまり晃様と貢様のお父上ですが、仕事が忙しいので私にあるアパートへ行き、様子を見てきてほしいと言われ、私は言われた通りにアパートへ行きました。
何度呼びかけても返事が無かったので、そのまま帰ろうかと思ったのですが、何故か気にかかりドアノブを引いてみると中から酷い匂いがしたので、部屋の中に入り異臭の正体を探しましたが、部屋の中には驚くほど何もありませんでした。家具類、衣類、その他生活必需品と呼ばれるもの何一つなく。何もない箱のような部屋に、一人両手両足を縛られた子供が残されていました」
その情景を思い浮かべて、俺は胃の辺りに気持悪さを覚えた。
「子供の周りの畳には水をこぼした後のような後がありました。トイレに行きたくても行けなかったんだと思います。足を縛っていた紐の先に五kgの鉄アレイが幾つも縛り付けられていました。
何時から縛られていたのか、縛られていた箇所の鬱血が酷く、紫色に変色していました。何度呼びかけても反応は無く、額に手を当ててみると酷い熱だったので、私は慌てて子供を病院に運びました」
さっきから昭島さんは誰の話をしているんだろう?
先輩の話をしていたはずだ。
これは先輩の話……なのか……?
志野原先輩の過去の話……。
「医者の診断では栄養失調の上肺炎を起こしかけていたそうです。発見がもっと遅くなれば命に関わったと言われました。後で調べて分かった事ですが、貢様の母親は新しい男と暮らす為に貢様を志野原社長に押し付ける形で、置いて行かれたそうです」
置いて行かれた子供……。
胸がチリチリする。
「社長は認知していない子供を引き取る気は無いとおっしゃられていたのですが、登紀子様……社長の奥様が、貢様を是非とも引き取りたいと社長を説得され、退院後、貢様は志野原の家に入る事になりました」
社長の奥さん。晃さんのお母さん……。
「本妻が愛人の子供を引き取りたいと言うなんて余程心の優しい方なんですね?」
そう言うと、昭島さんに何故か困った顔をされてしまった。
「違うよ光くん。そうじゃないんだ」
俺の言に答えたのは晃さんの方だった。
「あの女 は、兄さんが可哀想だからとかそういう理由で引き取った訳じゃないんだよ」
嫌な予感がした。
同情や好意で引き取った訳ではないのなら、理由は正反対のモノでしかありえない。
俺の推測を肯定するように昭島さんは目を伏せ話を続けた。
「志野原の家に入ってからも貢様は母親が迎えに来るのを待っていました。ですが、日が経つにつれ、迎えは来ないものだと悟ったのでしょう。貢様は、志野原家の一員になる為の努力をするようになりました。礼儀作法は勿論、勉強、スポーツ出された課題は全て完璧にこなされました」
「そうそう、僕なんかよりずっと出来が良かった。専属の家庭教師、コーチ、先生を付けても僕はかなわなかった。凄いよね」
晃さんは意味深にクスリと笑った。
そんな晃さんの様子を見て、昭島さんは軽い溜息を吐いた。
「晃様の言われたとおり貢様は良く御出来になった。全ては社長と奥様に認められたいが為の努力だったのでしょう。でも、かえってそれが良くなかった。貢様は奥様からそれまで以上に疎まれるようになりました」
それはそうだろう……。
愛人の子供が自分の子供よりも勝っていたら面白くないだろう。
自分が愛人に負けたような錯覚に陥るに違いない。
「茶室だったこの部屋をワンルームのように改築し、貢様を隔離されてしまいました。それだけならまだしも、朝と夜の配膳以外に貢様と接触する事を禁じ、完全に無視するように使用人に徹底しました」
ポタリ……ポタリ……。
心に何かが落ちて広がっていく感じがした。
それはずっと心の中にあった恐怖。
何年もの月日をかけ拭い去った恐れ……。
「貢様は自分に至らないところがあるのではないかと、更なる努力をしました。
努力をすればする程、奥様から冷遇され、見ているだけの使用人ですら胃に穴が開いたほどです。貢様本人にどれ程のストレスがかかっていた事か……」
「分かった光?僕の母は憎い愛人の子供を手元に置いていたぶりたかったんだ。本来愛人に向けるべき悪意をぶつけるために。根性悪いだろ? 性格最悪! 歪み過ぎだよね?」
群れに入れなかった子供。
孤独な中、人の悪意にさらされ続けてきた……。
「中学に上がった頃から貢様の様子が変わってきました。
それまでの優等生ぶりを壊すかのように成績は地に落ち生活態度は荒れ、悪い仲間達とつるむ様になり、警察にご厄介になる事も何度かありました」
先輩は……。
「貢様は気を引きたかったんだと思います。良い事をしても駄目だったので悪い事をすれば何らかのリアクションがある事を期待したんだと思います。でも、駄目でした。奥様は無視をし続け、社長は見向きもしませんでした」
必死だったんだ……。
振り向かせようと……。
それなのに……。
「貢様が15歳の時です。ちょっとした事件を起こし警察に補導されまして、何時ものように社長の代わりに私が迎えに行ったのですが」
そこまで言うと昭島さんは苦しそうな表情を浮かべた。
目を伏せ、まるで懺悔でもするかのように言葉を吐き出した。
「最初貢様は宙をぼんやりと見ていたんです。真横に立った私の気配に気付きこちらを向かれ、目が合った時、愕然としました。光がなかったのです。真っ暗でした。・・・・・・知っていますか? 諦めた人間の目は真っ暗なんです。まるで底の無い穴のように・・・・・・。後で警察に聞いた話しでは貢様は自ら足を止めたそうです。すばしっこかったので、警察も捕まえるのは無理だと半ば諦めていたんだそうです。なのにスピードを急に落とし、ゆっくりと歩き出し、まるでわざと捕まろうとしているようだったと……」
先輩は最後の賭けをしたんだ。
『今日迎えに来なければ諦めよう』と。
そして、賭けに負けたんだ。
だから……。
「全てを諦めてしまったんだと思います。貢様はあの日をさかえに日に日に弱っていきました。まるでゆっくり死んでいくように……」
俺が感じていたモノは間違いではなかった。
一年以上をかけて先輩はゆっくりと死んでいたんだ。
「すいません。少しの間この部屋に一人にしてくれませんか」
突然そう言われ二人とも驚いていたが、何も言わずに部屋から出て行ってくれた。
今まで良く分からなかったが、独りになってこの部屋の静けさが良く分かった。
誰の声もしない。
何の物音も聞こえない。
たまに木の葉音が聞こえるが、それはとても寂しい音だった。
こんな寒い部屋で先輩はずっと独りで暮らしてきたのかと思ったら胸が詰った。
重苦しい静寂に支配された部屋に独りで横たわっていると「遅くなりますからそろそろお送りします」っと昭島さんが部屋に入って来た。
腕時計を見ると20時を過ぎていた。
晃さんに先導されながら、元来た道を戻り小さな裏口に辿り付いた。
昭島さんが車を回してくれるまで少し時間があった。
何か先輩の事でまだ聞ける事はないかと考えていた時だった。
不意に晃さんが口を開き話し始めた。
「俺ね、子供の頃よく貢をいじめたんだ。蔵に閉じ込めたり、池に突き落としたり。子供だったから加減とか上手く出来なくて怪我ばかりさせてた。だからアイツは今でも俺の事恐いし、嫌いなんだ」
どうりで……。
人をなんとも思っていない先輩が、嫌い信号をハッキリ出しているわけだ。
「先輩の事嫌いだったんですか?」
「まさか! 大好きだよ。アイツって顔も綺麗だし、何でも出来るし、人を惹きつけるオーラみたいの出てるし……ホント特別って感じで、俺の憧れだよ」
「ならなんで……」
「人間の感情で一番作りやすいモノがなんなのか分かる?」
それは……。
俺が答えを悟ったのを表情で分かったのか、晃さんは嬉しそうに微笑んだ。
「そう、怒りだよ。子供だったから好かれる方法はよく分からなかった。好きでも嫌いでもないなんてそんな弱い感情は吹けば消えてしまうだろ? そんなモノは欲しくなかった。欲しいのは一番の好きか嫌いだったから俺は簡単な方をえらんだんだ」
悪魔の様な妖しい微笑を浮かべながら、そう言った。
晃さんの得体の知れない恐さが何なのか、少し分かった気がした。
「貢は人のぬくもりとか愛情とか知らないで育ったんだ。可哀相でしょ? 優しくしてあげたいよね? でも、同情なんかでアイツの傍になんかいられないよ……見てよ」
晃さんは振り返り、背後にそびえ立つ建物に目をやった。
視線の先を追うように俺も建物を見た。
「無駄にデカイ家。経済界の神とかなんとか言われているけど資本主義で成功している人間なんてそれだけ多くの人間を泣かせているんだ。恨んでいる人間だって少なくない。俺は何度も誘拐された。未遂を含めれば結構な数だ! 貢のヤツは妾の子だし、表立って息子だと言っていないから、今の所なんとも無いけど何時何が起こるか分からない危険性をはらんでいる人間の傍に居る覚悟はある? 無いなら今のうちに消えてよね」
口元は笑っていたが、目は笑っていなかった。
この人は本当に先輩の事が好きなんだ。
そう思った。
ハッキリとした答えを出せないでいると、昭島さんの運転する車がゆっくりと俺達の前で止まった。
後部座席に乗り込むと晃さんが手で「窓を下げろ」とジェスチャーした。
指示された通り窓を下げると、晃さんはそっと顔を寄せ「ちゃんと考えておいてね」っと耳元に囁いた。
「よければ車出しますよ」昭島さんが断ると晃さんは「バイバイ」と手を振った。
車は静に走り出し来た道を正確に戻って行った。
昭島さんは一言も何も話さなかった。
俺は窓から流れる景色に目をやりながら先輩の事だけを考えていた。
「着きましたよ」
そう言われて、初めて車が稔川酒店と書かれた店の前で停車している事に気付いた。
「スイマセン! 今降ります」
慌てて車から降り、運転手席側に回り込むと窓が静に下りた。
何度も昭島さんにお礼を言うと
「いえ、こちらの方こそ今日はお付き合い頂いて有難う御座いました」
逆にお礼を言われてしまった。
俺は一歩後ろに下がってその場から離れようとした時、低い静かな声は「貢様の事宜しくお願い致します」そう言った。
俺は直ぐに「はい」と返事が出来なかった。
「先輩の為に出来る事は何でもしたい」その気持に嘘偽りは無いし、変わってもない。
だが自信が無かった。
今日、先輩の話を聞いて本当に自分なんかでいいのかと……。
俺の言葉を待たず昭島さんは「それでは」と言って車を出した。
車の姿が見えなくなるまで暫くその場に立ち尽くした。
完全に車の姿が無くなり、店の中に入った。
店内にお客の姿は無く、レジカウンター内に仏頂面した父が座っていた。
「ただいま」
声をかけると手にしていた本から目を外し、俺の方を見た。
「なんだ、もう帰って来たのかよ。飯なら冷蔵庫だ。勝手に温めて食いな」
ぶっきらぼうに言った。
俺達の会話が聞こえたのか奥から兄の竜也が出て来た。
「お帰り。光」
何気ない言葉。
何時も通りの会話だった。
だが、自分を包んでいる空気の温かさに涙が溢れた。
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