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第44話 不意打ち【森谷】

「痛っ……てぇ」  バシャバシャと蛇口から流れ落ちる水に頭を突っ込んで、ズキズキと痛みの走る後頭部に触れた。  ぶつけたのが机の角じゃなくて良かった。  それに関しては本当に良かったけど、全身は万遍なく痛い。  殴られた頬も腹も、壁やら床やらにぶつけた頭も脚も腕も。    文化祭実行委員の仕事で追いやられた第三生徒指導室で、好きな相手と二人きりになったまでは良かった。  見ているだけでいい、なんて綺麗事は言わない。  少しでもこっちを見てくれたらいいな、くらいは思っていた。  好きな奴に対して触れたいと思うのは当然だし、他の奴の話をされるのはムカツク。  しかも、その様子が幸せそうで、そいつにどうしても敵わない自分を思い知って、心が冷たくなってしまった。  どう思われてもいい。  どうなっても構わない。  今だけでも自分のものにしたい、という衝動に支配されていた。  我に返ったのは、冷たい床の上に寝ている自分に気付いた時だ。  殴られて気を失っていたらしく、扉が破壊されてからの記憶が無い。  何者かが暴れたであろう第三生徒指導室を見回して、全てではないが、おおよその出来事は察した。  あの時、瀬口を助けに来たのは塚本だった。  室内には、自分以外は誰もいない。  それでもう事態の把握はできる。  なんて馬鹿な真似をしたのだろう、と頭を抱えるのと同時に、塚本はなんてタイミングで現れるのだろうと溜息が漏れる。  そのタイミングの良さが、二人の絆を表しているようで舌打ちせずにはいられなかった。  水を止めて顔を上げると、目の前にタオルがあった。  「あった」というより、差し出されていた。 「ん?」  雫が落ちてきて、ちゃんと目を開けて見ることができないのでよく分からないが、誰か親切な人が貸してくれようとしているらしい。  判断に迷っているうちに、タオルは頭に掛けられて、もう使うしかなくなってしまった。  洗って返せばいいか、と遠慮なく使わせていただくことにする。 「ありがとう……ござ、います」  顔を拭いて、改めて貸してくれた人物を見た瞬間、お礼の言葉が喉に痞えてしまった。  知っている顔だったから。  会話をした事は数回だけで、知り合いという程ではないけど。 「血、出てる」  その人は、自分の口の端を指して無表情でそう言った。 「知ってます」  殴られた口元からは血が滲んでいる。  これでも、さっきよりは止まってきているんだ。 「手当てする?」 「いいっすよ。舐めとけば治りますから」  一方的に殴られて気を失ってこの様だなんて、格好悪くて言えやしない。  怪我の理由を言いたくないから、訊かれる前に早く立ち去ってしまいたい。  だから、態度も素っ気無くなる。  黙って逃げられないのは、タオルを借りてしまった恩があるのと、あと、相手が先輩だから。  その人は、今年の夏で引退した柔道部の三年生だ。  と言っても、選手ではなかった。  強いて言うならマネージャー。  部が違うからあまり接点はないが、同じ運動部という事もあり、練習中などにたまに顔を合わす機会があった。  手の甲で口元を拭うと、不意にその手を掴まれた。 「痣もできてる」 「……そうですね」  腕だけじゃなくて、痣は多分全身にできていると思う。  あいつ、手加減なしだったから。 「これは、舐めても治らないよ」  そう言ってこちらを見上げたその人は、少し笑っていた。  痣ができた理由が理由にだけに、そういう言い方をされるとカチンとくる。 「分かってますよ」 「怒るなよ」 「怒ってません」  説得力なく、ついムキになってしまった。  ついでに、手も振り払ってしまった。  この人は何も悪くないのに。  おまけに先輩なのに。 「ふーん」 「な、何ですか」  意味ありげに微笑して、人の顔を凝視する。  居心地が悪い。  文句を言おうとした矢先、首にかけていた借りたタオルが引き抜かれた。 「あ」  咄嗟に手が出たが間に合わず、タオルは持ち主の手中に収まってしまった。 「洗って返しますよ」 「いーよ」 「でも」 「干しとけば乾くから」  そりゃあ、そうだろうけど、そういう問題じゃないと思うんですけど。  言葉を探しているうちに、先輩は歩き出してしまった。  どこかに行く用事があるのかもしれない。  引き止めては迷惑だろうけど、それでも呼び止めずにはいられなかった。 「浅野さん」  擦れ違った背中に向けて声を掛けると、すぐに「何?」と振り向いた。 「ありがとうございました」  もう一度、今度は丁寧にお礼を言う。  名前くらいしか知らないけど、親切でいい先輩だ。 「お大事にな」  先輩は、こちらを見てヘラリと笑った。  そう言ってくれるのは有難いんですけどね、先輩。  目に見える怪我よりも、見えない怪我の方が重傷なんですよ。  この痛みは、どうしたらいいんでしょうか?  なんて、この人に訊いてもどうしようもないんだけど。

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