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第98話 それもまた日常 -3

 屋上の扉を開けると、正面のフェンスに寄りかかるようにして座っている誠人を発見した。  この距離だと、起きているのか寝ているのかまでは分からない。  ゆっくり近寄って行くと、閉じていたが瞳が開いてしまった。  正直な所、寝ていてくれた方がありがたかったんだけど……。  目が合うのを避けて、さっと誠人の左隣に腰を下ろした。  寝ぼけているのか、誠人は一言も言葉を発しない。  見られているような気がして、抱えた膝に顔を埋める程俯いていた。 「今、そこで安達に会った」  何か喋らないといけないと思って、咄嗟に出た言葉がこれだった。  そんな事、わざわざ報告するまでもないんだけど。 「何かされた?」 「されてない」  全く何もってという訳じゃないけど、初対面の時に比べれば何てこと無い。  喋った内容も行動も、意味分からなかったけど。 「瀬口」 「何?」 「こっち向いて」  ギクリと肩がぎこちなく動いた。  これだけあからさまに目を合わせなかったら、そりゃ変に思うよな。 「……うん」  と、返事だけはしたものの、やっぱり顔を向けられない。  今顔を上げたら、誠人もこっちを見ているに決まっている。  目が合ってしまったら、どんな顔をしたらいいのか、まだ分からないんだ。  しかも、自分から隣に座ったとは言え、距離が近すぎる。  いや。  近すぎるって事はないんだけど、今のオレには充分至近距離だ。  心臓の音も聞こえてしまいそうで、息も上手くできない。 「瀬口」  誠人の声のトーンは変わらない。  イラついたり、呆れたりはしていなさそうなのがせめてもの救い。  もう少し。  あと少し呼吸が整ったら、何とか顔くらいは上げられそうなんだ。  そうこうしているうちに、 「ごめん」  と、先に言われて力が抜けた。 「どうして謝るんだよ」 「何となく」  何となくで謝られても、全然嬉しくない。  しかも、謝ってもらう理由がない。 「オレは別に怒ってないからな」 「分かってる」  分かっていて謝ったのかよ。  こいつ、いい加減だな。  だけどそのいい加減さが、今は少しありがたいと思う。  顔は上げられないけど誠人の様子が気になるので腕の隙間から覗き見ると、暇そうな手が見えた。  ちょっと迷って、その手に触れてみることにした。  途中で感付かれて、オレが掴んでやろうと思っていたのに、逆に掴まれてしまって、余計に顔なんて上げられる状況ではなくなくなってしまった。  だから、せめて言葉だけは頑張って押し出す。 「普通に、今まで通りにしよう思ってんだけど…全然できなくて」  我ながら情けない。  同じ側の手と足が同時に出てしまう行進のように、自分ではどうにもできない不自然さは周りにははっきりとバレてしまっているらしい。  今までだって、結構恥ずかしいと思うような事されてきたけど、あればっかりは完全に別格だ。  あんなに誰かを近くに感じた事なんて、経験がない。  一度越えてしまえば後は何とかなるんじゃないかなんてのは、考えが甘すぎた。  自分の不甲斐無さが情けなさ過ぎるんだよな。  大体、何をすればいいのかなんて分からないし。  何も出来ないでいるオレを、誠人は気遣ってくれた。  それだけじゃ申し訳ないし、寂しいような気がして応えようと思っても、頭も身体もついていかない。  そして何より、あの状況でそんな事を考えて実行できる余裕なんて、これから先も到底あるとは思えない。 「今まで通りは、嫌だな」  回想で勝手に恥ずかしさをぶり返していた所に、誠人の呟きが聞こえた。 「何で?」  少なくとも、今みたいにギクシャクはしてなかったし、自分で言うのもなんだけど結構良い雰囲気だったと思うんだけどな。  それが嫌だって言われると、ちょっと困る。 「瀬口を抱いたことも、無かった事になりそうで」 「だっ……!?」  思わず弾かれたように顔を上げて誠人を見てしまった。  そういうあからさまな言い方を淡々とするなよ。  目が合って、しまったと思った時には既に遅い。 「それに、そうして意識してる瀬口も、可愛いよ」  このやろう。  そういう事を簡単に言うなよな。  こんな落ち着きのないガサガサした状態の、どこを見てそんな事を思うんだか。 「……か、わいくないし」  居た堪れなくなって、油の切れたブリキのようなぎこちない動きで正面に向き直した。  絡められる指と指が、あの時を再現しているようで思わず全身に力が入る。 「だから、無理に俺の側に来なくてもいいよ」  その言われ様はかなり心外だった。  こんな意識しまくりの状態を少し離れた所から見るのが楽しいから側にいなくていいって、相当酷い事言っている自覚ないんだろうな。 「無理なんかしてねぇよ」 「そうか」  手応えのない納得もいつも通り。  オレの気持ちがちゃんと届いているのか、凄く不安になる。 「オレは、お前にどう思われてるのかっていうのが一番怖いんだよ」  こいつは簡単に「好き」とか「可愛い」とか言うくせに、やっぱり簡単に「側に来なくていい」と言う。  そんな言葉を言われて、オレが安心するとでも思っているんだろうか。  思っているんだろうな、多分。 「塚本みたいに慣れてる訳じゃないし、絶対に迷惑掛けてるって分かるから……」 「俺も、怖いよ」  遮るように言われても、あまり説得力がない。  お前のどこを見ても、怖がっているようには見えなかったぞ。 「ホントかよ」  疑いの眼差しを向けて言ってやる。 「瀬口に、無理させてるって思う度に、怖くて抑えがきかなくなる」 「抑え?」  何の? 「この腕が、檻だったらいいと思った」  空いている方の腕を持ち上げて、じっと見つめる。  どうしよう。  意味が分からない。 「は?」 「瀬口を、ずっと閉じ込めておけるから」  一体何を言い出したのかと思ったら、そういう比喩表現か。 「その発想、ちょっと危険だぞ」 「だから、いつも抑えてる」 「……ふーん」  それって、誠人の方が無理してるって事じゃないのか?  しかも「いつも」って事は、今も?  全く、奇特な奴だよな。  オレなんかをそんな風に想ってくれるなんて。 「わざわざ閉じ込めなくても、オレは塚本の側にいるから大丈夫だよ」  檻って表現はちょっと合わないけど、オレはもう既にその腕からは逃げられないんだよ。 「瀬口」  誠人の声がオレを呼ぶ。  さっきより落ち着いてきたから、今度は名前を呼ばれてすぐに顔を向けられた。  やっぱ意識してごちゃごちゃ考えて逃げるより、隣にいてちゃんと喋ってれば自然と普通に戻るもんなんだよな。 「何?」  とは言え、見つめられるとドキドキする。  それも前と同じと言えば同じか。 「名前で、呼んでくれるんだろ?」  妙に真剣な表情で何を言うかと思えば。  あー、そうだった。  て言うか、ちゃんと覚えていたけど、何か照れくさかったから今まで通りにしていただけなんだよな。  今まで通りが嫌なら、当然それも嫌って事か。  そういう所は分かりやすいよな。 「拘るよな、それ」  そんな拘りを持っていたなんてちょっと意外だ。  カワイイ所もあるんだよな。  なんて微笑ましく思ったのも束の間。 「瀬口の声、好きなんだ」  わざととしか思えないくらい、オレの琴線に触れる声音で囁く。 「瀬口に、『誠人』って呼ばれると、気持ちいい」  ダメだ。  こいつ、本当にダメだ。  オレを殺す気だ。  その言葉、そっくりそのまま返してやりたい。 「そう、なんだ…?」  やっとの思いで絞り出した声も、聞こえたかどうか怪しい音量だった。  追い討ちをかけるように、オレの手を掴んだままの誠人の手が持ち上がって、阻止する間もなく指の付け根に口付けられていた。  軽く触れる程度でも、唇の感触ははっきりと感じられる。 「左じゃなくて、残念」  そう言ってペロリと舐めたのは薬指だった。  衝撃が駆け巡った身体は、見事に痺れて動けない。 「ま、さと」 「ん?」 「オレ、ちょっと……限界」  せっかく元に戻ったと思ったのに、情けない事に色々思い出して撃沈してしまった。  呼吸困難になるくらいの動悸に襲われて、かなりクラクラしている。  左だったら、即死だったかも。

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