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第122話 閉ざした扉の向こう側 -2
* * *
オレの記憶が1年間分無くなってしまったというのは、どうやら本当らしい。
どこに行っても、誰に訊いても、オレは高校2年生で、今は5月の下旬なのだと言う。
一応病院には行ったけど、薬を飲んで治るものじゃないし。
思い出そうと努力してみても、「忘れた」って言うよりは「知らない」って感じで頭が痛くなるだけ。
成り行きに任せておけば、いつか戻ってくるんじゃないかという淡い期待を抱きつつ、いつもと同じように生活する事になった。
つまり、普通に学校に通うという事。
高校に入学したばかりでまだ高校生の実感もそんなに無いのに、いきなり2年生ですって言われても困るんだよな。
完全にクラスから浮いている。
みんな事情を知っていて気を遣ってくれるけど、居心地が悪いのは変わりない。
「入学直後からの記憶がないんだったら、校内の事も分からないんだよな」
混雑する昼休みの購買から抜け出した所で、買ったばかりのパンと牛乳を手にしたシロ(赤Tシャツを着ていた奴)が呟いた。
その後を付いていたオレは、人の波に飲まれそうになりながらもなんとか頷いた。
「案内とかした方がいいのかな」
「そういう事は、教室の移動があった時とかに教えればいいんじゃねぇの?」
シロの親切をあっさり流したのは、オレの記憶に残る数少ないクラスメイトの森谷だ。
同じクラスという事もあり、この2人と藤堂の3人はしきりにオレを気にかけてくれる。
今も、昼休みだというのに、オレを心配して一緒にいてくれている。
いい奴らだなぁ。
「あっれ? なっちゃんだ」
どこからか聞こえた大きな声に、森谷もシロも少なからずの反応を見せた。
反応しなかったオレだけ、2人の動きにつられて数秒遅れで顔を上げた。
「頭大丈夫~?」
「その訊き方、ちょっと問題アリだな」
賑やかな声を発しながらオレたちの側に寄ってきたのは、2人の生徒だった。
えっと……3年生かな?
「記憶喪失なんだって? 随分と愉快な状況になったね~」
「当然、俺らの事も忘れちゃってるんだよね?」
仰るとおり、すっかり忘れております。
やけに馴れ馴れしい人たちだけど、一体誰なんだ?
部活の先輩とかだろうか。
「すっごい楽しそうですね」
シロも知っている人達らしく、随分と親しげに話し始めた。
「顔が笑ってますよ、英介さん」
「笑い事じゃないとは分かってるんだけど、どーしても愉快って方が勝ってしまって。それに、顔が笑っちゃってるのは俺だけじゃないって」
英介さんと呼ばれた方の人は、言葉通りのヘラリとした笑みを浮かべて、隣にいるもう一人を見た。
「人の不幸が楽しいって本当なんだよな。自分の事を綺麗さっぱり忘れられて打ちひしがれている塚本を見てたら、あまりにも哀れで」
「黒見先輩って、意外に悪趣味だったんですね」
「知らなかった?」
森谷とも知り合いなのか。
という事は、みんなの知り合いって事か。
髪が黒くて短い方が黒見先輩で、その人よりもやや背が低い方が英介さん、と。
よし、憶えた。
あと、今の黒見先輩のセリフの中に出てきた「塚本」って、一昨日目が覚めた時に目の前にいたあの顔の近い奴だよな。
同じクラスだけど留年してて年上で、入学式にも出ていなかった奴だ。
通りで見覚えがない筈だ。
初日に聞いた「塚本」の噂はあまり良いものではなかったけど、記憶を失くす前のオレとはかなり仲が良かったというんだから、きっと悪い奴じゃないんだろう。
少なくとも、オレと気が合うような奴なんだろうな。
でも、一昨日の感じだと、とてもそうは思えない。
ただでさえ寡黙そうで考えてる事が分かりにくそうなのに、一昨日はあれから一言も喋らなくなっちゃったし。
今日もまだ一度も顔を合わせていない。
昨日はオレが学校来てなかったから、あれから一度も会ってないんだよな。
本当にあんな奴と仲良かったのかな。
記憶が無いのをいい事に、皆に騙されてるんじゃないのか?
「そうだ、あれ試した?」
疑心暗鬼になりかけていたオレをジッと見て、やけに嬉しそうな笑顔を浮かべた英介さんが訊く。
「あれって?」
「同じくらいの衝撃を頭に与えてみるってやつ。もう一回、どっかから落ちてみれば?」
「落ち……」
笑顔で恐ろしい事を言われて、後に続く言葉が出てこない。
勿論、冗談なんだよな?
「英介さん、それはちょっと手荒すぎ。せめて、誰かに殴ってもらうくらいにしときなよ」
と、五十歩百歩な事を言いながら、またしても知らない顔が現われた。
背はオレと大して違わなくて、顔はまだちょっとカワイイが勝ってる感じの奴。
小奇麗な顔と雰囲気は、女の子ウケしそうだ。
ネクタイの色から察するに……1年生か。
今度は誰だ。
「『誰だっけ?』って顔してるけど、俺とは初対面だから、例え今奇跡的に記憶が戻っても知らないと思うよ」
「そっか」
「どーも、初めまして」
「こちらこそ」
と、つられて挨拶をしてみたものの、何か不思議な違和感を覚えた。
ペースに巻き込まれてないか?
「ちなみに、俺らも初めましてなんスけど」
と無意味に手を上げて主張するのは森谷だ。
その隣でシロも頷いているから、2人とも初対面らしい。
なんだ。オレだけじゃなかったのか。
「駄目じゃん、将孝 くん。ちゃんとご挨拶しなきゃ」
初対面の1年の頭を押さえて無理矢理下げさせたのは、急に保護者の様になってしまった英介さんだ。
「不束者ですが、末永くよろしくお願いします、って」
「俺、別に嫁に行く訳じゃないんだけど」
「行けるうちに行っとけ? 今だけだぞ、カワイイ~って言われるのは」
ご機嫌に笑う英介さんには悪いけど、オレも嫁に貰う気は全くない。
「そう言えば、あの勝負はどうなったんだ?」
黒見先輩が思い出したように誰とも無しに訊く。
当然、オレには何の事か分からない。
「勝負?」
「俺と塚本で、体育祭の1500mの勝負をしてたんだ」
隣にいた森谷に訊くと、苦笑混じりに答えてくれた。
それにしても、森谷と塚本でそんな事をするなんて、少し意外だ。
オレの目が覚めた時2人とも居たし、案外仲がいいんだな。
「好きな子を賭けて、な」
と、付け足してくれたのはシロだ。
その発言はもっと意外だった。
好きな子、かぁ。
どうしてか分からないけど、凄く驚いてしまった。
あまりにも唐突だった所為かもしれないけど、自分でも不思議な程の衝撃。
何でオレがこんなにビックリしなきゃいけないんだ。
「でも、俺も塚本も棄権したから、結局は無効になっちゃいましたけどね」
そう言った森谷の口調は、カラッとしているようで残念そうに聞こえた。
勝った方がその子と付き合う、とかいう賭けだったのだろうか。
だけど、その好きな子の気持ちはどうなってんのかな。
まぁ、オレが気にしても仕方ないんだけど。
「へぇ……」
やっと出たのは、気の抜けた感想だけ。
「気になる?」
すかさず訊いてくるシロの質問は、無性に不愉快な気になった。
「気になるって言うか……」
そこまで言って、次の言葉が出てこなくなった。
気になるとか、ならないとか、そういういう感じじゃない。
もっと違う引っかかりがある。
「森谷と塚本は、同じ人が好きなのか?」
ごく自然だと思った疑問を口にした途端、みんなの動きが止まってしまったように思えた。
オレ、何か変な事言ったか?
「え!? そうだったの?」
やたらと大きなリアクションでそう言うのは、さっき英介さんに将孝と呼ばれた1年生だった。
「別に、そういう訳じゃないけど、まぁ……近いかな」
森谷の返答は、やんわりと否定しているようで、認めているようにしか聞こえない。
上手く言えないけど、何だか置いていかれた気分だ。
皆の会話に付いていけないだけじゃなくて、オレだけ成長してないって言うか、1年分の距離を感じるというか。
自分だけ、世の中から取り残されてしまっているような。
「大丈夫か、瀬口?」
オレの異変に気づいた森谷が声を掛けてくれた。
「大丈夫」
と答えるのが精一杯だったけど、頑張って声を捻り出す。
早くこの場から離れたい。
「ちょっと疲れたから、先に教室戻ってる」
言うや否や、オレはその場から走り去っていた。
自分でも理解できない訳の分からない不安に、頭が潰れそうに軋んでいる。
追い駆けて来られないように走ってしまったので、軽く迷子になってしまった。
イマイチ、自分の現在地がよく分からない。
でも、迷ったと言っても所詮は学校の敷地内な訳だし、なんとかなるだろう。
それに、今はまだ教室に戻りたくない。
胸がソワソワして落ち着かない。
どこか落ち着ける場所はないかな、とフラフラ歩いているだけなのに、足は迷う事なくどこかに向かっている。
目的地がどこなのか分からないのに、オレはそこを知っている。
知らない場所に向かっているのに、不安はない。
見覚えのあるような校舎の階段を昇って、更に昇って、薄暗い最上階の踊り場に出た。
殺風景なその場所にあるのは、屋上へ出る為の無愛想な扉だけ。
『締め切り』と書いた紙が貼ってあるけど、その扉に鍵が掛かっていない事をオレは知っている。
伸ばした手をノブに掛けて、ゆっくりと捻る。
重たいドアの向こうから押し寄せてくる光を浴びて、込み上げてくる愛しさを感じた。
もしかしたら、ここにはオレが失くしてしまったものがあるのかもしれない。
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