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《番外》祈って叶うものならば -1【塚本】

 ○ 123話の後くらいの塚本視点です。若干暗めです。  瀬口の記憶と共に、瀬口と出会ってからの約一年分の自分も消えてしまったようだった。  酷い喪失感。  大事なものを無理矢理削り取られて、自分の中には何も残っていない。  それなのに、どうして自分がここにいるのかと考える頭はまだ有る。  どうせなら、本当に消えてなくなってしまいたい。  目を閉じて広がる闇の中に、永遠に埋もれてしまえたら。  けれど、実際に埋もれてしまえる筈もない。  それどころか、瞼を落とすと瀬口が映る。  浅い眠りの中で、嫌がる瀬口を無理矢理犯す虚しさに吐き気がする。  泣き叫びながら「お願いだから、もう止めて」と懇願する瀬口を、欲望のままに何度も穿つ。  塚本を責める、恐怖と嫌悪と蔑みの眼差しは、気持ち良いとは程遠い行為である事を物語っている。  そして、こちらを睨みながら瀬口が言う。 「お前なんか、大っ嫌いだ!」  と。  いつもそこで正気に戻る。  まるで、悪夢から覚めたような疲労感に襲われる。  今のが夢で良かったと思う反面、ようやく触れられたと思っていた瀬口が本物でなかったという事実に愕然とする。  眠ると嫌なものばかり見てしまうので、眠らないことにした。  そう決めた脳裏に、ふと懐かしい感覚が甦る。  夜に眠らなくても良いのだ、と思っていたのはほんの一年程前の事だ。  二年程前、祖父が亡くなった。  自宅の敷地で柔道場を構える剛毅朴訥な人物だった。  もちろん、塚本も弟の尚糸も師事していた。  ある時、体調が良くないからと検査を受けると、既に余命半年とのことだった。  それからは、見る見るうちに衰えていき、自力で歩くのもやっとな状態になっていった。  近所の子供や学生達で活気のあった道場は、祖父が病に臥せってからは閑散としただの箱となってしまった。  それでも、塚本と尚糸、元々道場に通う生徒の一人だった父の三人で、いつでも再開できるように整備はしていた。  祖父はその事をとても喜び、「良い息子と孫を持った」と微笑んでいた。  塚本が高校に入学して少し経った頃、祖父は寝起きをしていた離れから、隣町の病院へ移った。  道場に続き、離れもまた、ただの箱になってしまった。  祖父が飼っていた猫に餌をやりに離れに行くと、何も知らずに縁側で暢気に眠っていて、少し癒された気分になった。  長い尻尾の黒い猫は、塚本が知っている限り十歳はとうに超えていて、「俺と同じで年寄りなんだ」とよく祖父が言っていた。  隣に座って頭を撫でると、気持ちよさそうに伸びをする。  猫にとっては、何も変わらない日常に過ぎない。  気まぐれに撫でる手が誰のものであっても、きっと何も気にしない。  その日から、塚本は離れで過ごすようになった。  いつ戻ってきても良いように。  この黒い猫と一緒に待っていようと思っていた。  その日は、朝早くから電話が鳴り、取る物も取らずに病院に向かった。  家に帰ったのは夕方だった。  両親は慌ただしく電話を掛けたり、集まってきた近所の人たちの対応に追われていた。  泣いてぐしゃぐしゃになった尚糸が、ぎゅっと塚本の手を握っていた。  自宅の冷蔵庫からジュースを取り出し、二人で飲んだ。  味のしない炭酸飲料だった。  それから、不意に猫のことを思い出した。  今日はまだ餌をあげていなかった、と。  餌を持って離れに行ったが、姿はどこにもなかった。  夜になっても、帰っては来なかった。  敷地内を、近所を、夜通し探したが見つからなかった。  まるで、祖父の後を追ったかのように思えて、無性に空しくなった。  道場の中で朝を迎えた。  眠ってはいない。  ただ、そこにいた。  大切な人を失くしても、眠らなくても朝は来るのだ、と当たり前の事を知った。  道場の壁に寄りかかり、夜通し目を開けてひたすら時間が経つのを待つ。  まるで、祖父が亡くなった日の夜のようだと、ぼんやり思っていた。  独りでいると良くない事ばかり考えてしまうが、今は独りでいたかった。  あの日から乱れていた日常は、徐々にではあるが、いつの間にか一般的な生活リズムが戻りつつあった。  夜に寝て、朝起きて学校に行く、という至って普通のリズム。  学校に行って瀬口に会う。  ただそれだけの事で、生活が変わった。  ここでまた乱れてしまうだろうけれど。 「学校、か」  呟いた言葉は、誰に拾われることもなく虚しく畳の上に落ちた。  学校に行けば瀬口に会える。  けれど、今の瀬口は塚本を知らない。  触れることもできない。  元々、瀬口は男と付き合う事に抵抗を感じていた。  怖い気持ちを必死に堪えて身体を預けてくれていたのは、十分すぎるほど知っている。  男である自分がいつか塚本に飽きられるのではかと怯えていたのも、無理して身体を重ねようと努力してくれていたのも、全ては塚本に対して少なからず好意を持っていてくれていたからだ。  しかし、今の瀬口にはそれが無い。  瀬口にとって塚本誠人という人間は、ただ同じ学校に通っている生徒というだけで、それ以上の接点は何もない。 「あぁ、そうか」  唐突に、一つの結論が見えた。  男と付き合う事に抵抗のある瀬口が、男と付き合っていた記憶をなくしたのなら、このままそっとしておくべきなのかもしれない。  そうすれば、もう悩ませることも無くなる。  瀬口にとっても、きっとそれがいい。  きっと。  …………。  けれど……。  耐えられるだろうか。  瀬口との時間がもう二度と交わらない、これからに。  だったらいっその事、瀬口の記憶と共に自分も消えてしまいたかった。  無かった事にしたいんじゃない。  ずっと憶えていたいんだ。  けれど、今のままだと憶えているのが辛くて、何をしてしまうか分からないから。 「俺が、いなくなればいいのか」  それが一番手っ取り早いのだと気づいた。

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