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《番外》まるで深い海の底にいるようで -2【塚本】

 いくつかの自己主張を聞き流しているうちに、有島は部室から出て行った。  ようやく静かになった室内で、次の行動を考える。  着替えようとしていた事を思い出し、柔道着に手を掛けた。  脱ぎ捨てた柔道着が床に落ちるのとほぼ同時に、部室のドアがおもむろに開いて誰かが顔を覗かせた。 「誰かいますかー?」  控えめな声が響く。  その声に反応して、塚本は入り口を見やった。  有島が戻ってきたのかとも思ったが、その声は明らかに違っていた。  こんな所で聞ける筈の無い、けれど待ち焦がれていた声だ。  目が合った瞬間、ドアの隙間から覗く顔が少し怯えているように見えたのは、気のせいではないだろう。 「瀬口?」  そんな表情をする為にわざわざやって来たとは考え難くて、何か余程の理由があるのだろうと訊く。 「どうした?」  瀬口がこの場にやって来る理由など塚本以外には考えられないが、それはあくまで以前の瀬口の場合だ。  今の瀬口に、この部室に塚本を尋ねる理由などない。  「いや……別に用って訳じゃないんだけど」  言いながら室内に足を踏み入れる。  戸惑うような表情で部室を見回して、なるべく塚本を見ないようにしているようだ。  昼休みの屋上での出来事で、塚本を警戒しているのだろう。  しかし、その警戒している相手の所にわざわざ来るというのは、どういうことだろうか。 「今、1年生の子が出てったけど」  話題に困ったらしく、行き違いになったらしい有島の事を口にする。 「ああ」  会話の内容もほとんど覚えていないが、ここにいた事は確かだ。  擦れ違いざまに瀬口に何か吹き込んだのだろうか、という考えに至る程、今の塚本の頭は上手く動いていない。  塚本が頷いてから再び沈黙が訪れる。 「さっき、柔道場にいただろ」  やはり話題に困った瀬口が、他愛も無い事を言う。  瀬口と森谷が並んで見学していた光景を思い出して心が乱れる。  表面上は冷静さを維持しつつ、瀬口は一体何がしたいのだろう、と考える。  警戒している相手と2人きりになって、無理に会話をする必要があるだろうか。  まさかとは思うが、これもまた誰かが言い出した賭けの類なのではないだろうか、と疑ってもみる。  そう言えば、と塚本は思い当たる節があった事を思い出した。  柔道場に向かう前に、西原と会ったのだ。  塚本を心配しているようでいて、面白がっているようでもあり、この薄ら重い状況を鬱陶しくも思っている人物だ。  西原が積極的に何かを仕掛けるというのは考え難いが、他に瀬口がこの場にいる理由が思い当たらない。 「ちょっとだけ見たんだけど、お前強いな。びっくりした」  純粋にそう思っているらしく、瀬口の声音は心なしか弾んでいるように聞こえる。 「かなり未熟、だけどな」  あれはただの八つ当たりなのだ。  いくら手練に見えていたとしても、八つ当たりの手段にしているなんて未熟という他ない。  独り言のような塚本の呟きに、瀬口は首を傾げている。  塚本の心情を知らなければ、その意味はきっと理解できないだろう。 「わざわざ、そんな事を言いに来たのか」  瀬口に近付かないようにしていた塚本にとっても、2人きりというこの空間はとても落ち着かない。  できる事なら出て行ってもらいたい所だが、有島のように簡単に突き放す事もできない。  しかし、このままでは昼休みの二の舞となるのは時間の問題だ。  急かして突き放すような言い方になってしまうのは、仕方が無い。  それが伝わったのか、瀬口がしどろもどろに口を開く。 「小耳に挟んだんだけど、その……オレ達ってさ……」  その後に続く言葉は、大方予想がつく。  きっと、誰かが瀬口に教えたのだろう。  塚本と瀬口が付き合っていた、と。  それをわざわざ確かめにやって来た、という事らしい。  戸惑いの表情から察するに、そんな事実に納得していないようだ。  瀬口の立場を考えれば、当然すぎる流れだ。  否定してくれ、と瞳が訴えているように思えて、やはりその通りにしてあげなくてはいけないのだと確信した。 「気にしなくていい」  無理をして確かめに来る程の事でもない。  そんな怯えたような態度で接せられるより、塚本の事など気にせずに笑っていてくれた方がよっぽどいい。  そして、なるべく傍に寄らないでくれれば助かる。  これ以上近付いてしまったら、何をするか分からないから。 「え?」  瀬口を安心させようとした一言だったのだが、聞こえなかったのか、上手く伝わらなかったのか、瀬口は顔を顰めている。 「俺と瀬口がどんな関係だったかなんて、忘れたなら、忘れたままでいい」  今度は、塚本にしては少し長めの言葉を紡ぐ。  こんな程度の事で悩んだり、失くした時間を想像して嫌悪感を抱いたりしなくてもいいように。  瀬口が望むのなら、何も無かったことにしてくれて構わない。 「俺が、ずっと憶えてるから。瀬口は、もういいよ」  瀬口の心を曇らせる原因になる事のほうが、よほど耐え難い。  切なさや寂しさも、嫉妬も苛立ちも、全て塚本の内にしまってしまえればいいのだ。  それで、何の問題もない。  筈だったのだが、意外な事に瀬口はそうではなかったらしい。 「もういいって何だよ」  怒りを抑えるような瀬口の声が響く。  てっきり安心してくれると思っていたのに、見るからに不機嫌になってしまった。  それは、塚本が全く予想していなかった反応だ。 「『ずっと憶えてる』???」  瀬口は、若干苛立ち気味に塚本のセリフを繰り返した。 「オレが忘れてても塚本が憶えてて、それをずっーと後生大事に抱えてるから、だからオレはもう必要ないって事か!?」  必要ないとまでは言っていないが、塚本の言いたかった事は大体伝わっていたようだ。

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