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第151話 痛みすら包み込むような -2

「タオルの場所とか分かる?」  離れの入り口を、無造作に開けながら尚糸が訊いてくる。  開けたらそこにあいつがいたら、とかドキドキするオレなんてお構いなしだ。  こっちの事情を知らないのは当然としても、もう少しオレの不自然な態度とか察して欲しいと思ってしまうのは厚かましいよな。 「分かる、けど」  尚糸の声を聞きながら中の様子を窺って、誰もいないようでちょっと安心する。 「じゃ、先に入って拭いて待ってて。着替え持ってくるから」 「着替え?」 「兄ちゃんの服じゃ合わないだろ。サイズ的には、俺の方が近そうだから」  言われてみれば、オレと尚糸の目線はあまり変わらない。  体格も、大差があるようには思えない。 「……そうかも」  カワイイ弟だと思っていたのに、いつの間にか追いつかれていたってどういう事だ。  そりゃ、兄がアレだから大きくなる可能性大だと分かってはいたけど、成長の速さまでは予想していなかった。  このペースでいったら、次に会う時には身長追い越されてそうで嫌だな。 「なんなら、風呂にでも入ってればいいよ」  自分とは違う成長スピードに軽く落ち込んでいる所に、尚糸から気を利かせたらしい提案をされた。  確かに、ここの離れには風呂もあるけど、今のオレが気軽に入っていけるようなものではない。 「それは、ちょっと……」 「勝手に風呂に入るより、こんな事でナツが風邪引く方が兄ちゃんは怒ると思うけどな」  やんわり遠慮しようとしたオレの言葉を遮るようにそう言って、尚糸は母屋へと歩き出してしまった。  言い逃げもいいトコだ。  こっちの深刻さは全く伝わっていない、軽いノリが恨めしい。  尚糸の言う「兄ちゃん」は、オレの体調なんかもう気にも留めないんだよ。  と、自虐的な事を考えつつ、水溜りになっていく自分の足元を見た。  オレが犬だったら、ここで盛大にブルブルと全身の水分を振るい落としているところだな。  完全に水没した状態の靴を脱いで、少し考える。  このまま上がったら廊下も濡れるよな、と仕方が無いから靴下も脱ぐ。  なるべく速やかに、少し奥へ行った所にある脱衣所へ向かう。  足音がペタペタとやけに響いて、知らない家じゃないのに不思議な感じがする。  誰もいないって、安心したけど少し寂しい。  脱衣所の引き出しからタオルを一枚拝借しようとして手を止めた。 「あー……」  オレの足元が水浸しだ。  動く度に雫が落ちるし、早く服を脱いでしまわないといけない。  借りたタオルを広げて頭に被るように乗せてからベルトに手をかけて、一瞬躊躇う。  でも、尚糸が着替えを持ってきてくれるって言ってたし、どうせ脱ぐんだったら被害を少なくした方がいいよな。  雨を吸って重みの増した制服のズボンからは、ポタポタと水滴が落ちている。  絞ってやろうか悩んだ末に、一時的に洗面台に置かせてもらうことにした。  何だか大事になってしまったなぁ、と溜め息を吐きながらワイシャツのボタンを外す。  このままあいつを待つにしても、こんな状態じゃ話なんかまともにできない。  やっぱ、出直すべきかなぁ。  そういえば、鞄の中身は無事だろうか。  ノートとかの紙類も心配だけど、スマホとかの精密機器が気になる。  ボタンを途中まで外したところで、床に置いた鞄を確認しようとしゃがみ込んだ。  鞄を開けて、さっと中を物色する。  多少の湿り気は仕方ないとして、大方無事なようで良かった。  下を向くと視界の端に水を含んだ髪が映る。  量は減ったけど、水滴は相変らずポタポタと落ちてくる。  頭に乗っけたタオルで髪を拭きながら立ち上がろうとして、予期しないものが目に映って動きが止まった。 「……っ!」  脱衣所の入り口に人が立っていたからだ。  尚糸ではない。  今、オレが一番恐れている相手で、この家の住人である、塚本誠人だ。  腕組みをして、読めない表情でこちらを見ている。  怒っているのか、驚いているのか、それとも呆れているのか、全く読めない。  いくら弟の許可があったとは言え、勝手に上がり込んで廊下を汚し、服を脱ぎ散らかしている今のオレの立場はかなりヤバイ。  立ち上がろうとしていた所でビックリして力が抜けたから、床にヘニャリとへたり込んでしまった。  見上げる姿勢になってしまって、精神的にもかなり不利だ。  立ち上がって言い訳をする余裕もない。  と言うか、蛇に睨まれた蛙ってこんな感じなのかも、というくらいに身動き一つ取れない。 「……いつ、帰ってきた?」 「今」  恐る恐る訊いてみたけど、表情も変えずにたった二文字が返ってきただけだった。 「あー……何か、勝手にゴメン」  と謝りながら、自分の格好の不利さに愕然とする。  オレが身に付けているものなんて、ワイシャツとパンツだけだ。  しかも、シャツに至っては半分ほどボタンを外してある上に、ぐっしょりと濡れていて肌が透けている。  恥ずかしさで体温が上がるのと同時に、精神的ダメージで血の気が引くという矛盾した症状に襲われて嫌な汗が出る。 「何、してんの?」  ご尤も!  そう訊かれるのも無理はない。  と言うか、もし立場が逆だったら、オレは大騒ぎしているかもしれない。  それなのに、どうしてこうも落ち着いて訊けるのか。  こいつの妙な冷静さに、余計に追い詰められている気がする。 「えっと……雨、がいきなり降ってきて、思いっきり濡れちゃったから、このまま電車は無理っぽくて着替えを」  我ながら、何を言っているのか分からない。  片言の方がまだマシだ。  オレのたどたどしい言い訳では納得できないらしく、更に質問された。 「雨に降られてまでして、何しに来たの?」  それは、否定されているような一言だった。  言葉を補足するなら、「今更何しに来た」とか、「何の用があるのか」とか、「関係無いクセに」とか、いくらでも足すことができる。  胸が圧迫されるような苦しさに、息が止まる。  確かにその通りだけど、お前の口からそんな冷たい言葉を投げつけられた事なんか無かったから、免疫が無さ過ぎて泣きそうだ。  堪えようとして顔が歪むのを見られたくなくて、俯くしかできない。  頭に乗せたタオルが覆ってくれて、顔を隠すのに丁度いい。  ポタポタと落ちるのは水滴であって、決して涙ではない。 「何しにって……」  今日オレがここに来たのは、藤堂に怒られたり、弓月さんに痛い所突かれたり、 有島に不愉快な言いがかりを付けられたりして、オレがどうして振られたのか分からなくなったから正解を教えてもらおうと思ったからで。  一言で纏められるようなもんじゃないんだよ。

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