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《番外》振り返らずに進め -3【伊原】

「先輩に何て事言いやがるんだっ!」  瞬間的に怒っていると判断できるような声が、勢いの良い平手と共に飛んできた。 「いってー!!」  殴られた頭を抑えながら振り向くと、同じクラスの上野(うえの)が二発目の用意をして立っていた。 「せっかく忠告してくれてる先輩に対して、何だその言い草はっ」 「はぁ!? 自分の都合で俺と彼織さんを引き離すような奴だぞっ。あのくらい言って何が悪い!」  言い返すと、容赦なく二発目が飛んできた。  一体どこでどこから聞いていたのか知らないけれど、さっきの会話の内容で叩かれるのがどうして俺なんだよっ。  どう考えても先輩の自己中だろ。 「スミマセン、先輩。こいつには自分からよく言って聞かせます!」  上野は俺の後頭部を掴んで強引に頭を下げさせた。  抵抗しようにも、力が強すぎて無理だ。  確かこいつ、柔道部だったっけ。 「ああ、うん。じゃあ、そうしてもらおうかな」  上野の登場に驚いたらしい先輩は、相変らずの煮え切らない口調でそう言って頷いた。 「勝手に話を進めんなっ! 俺はまだ納得してねぇぞ!」 「うるさい、黙れっ」  馬鹿力の手を何とか振り払って言うと、上野に一喝されてしまった。  何だよこいつ、偉そうに。 「あのさ、伊原くん」  掴まれた感触の残る後頭部を擦りながら上野を睨んでいると、先輩が声を掛けてきた。  返事するのも面倒なので目線をくれてやると、少し穏やかに笑う先輩の顔があった。  そんな表情されても、彼織さんを諦めるつもりなんてないですからね。 「今は分からないだろうけど、一時の感情で取り返しの付かない事になる前に、藤堂からは手を引いた方が絶対にいいから」  言われた事を理解して怒りに変わる前に、先輩は逃げるように立ち去ってしまった。  捨て台詞までもが癇に障る言葉だった。  何だよ。  言いたい事だけ言って勝手に逃げるなんて。  卑怯者め。  そっちがその気なら、こっちだって考えがあるぞ、コラ。 「伊原さぁ」  ジワジワとした怒りに顔を顰めていると、突然現われて余計な事をしやがった上野が口を開いた。 「もっと空気読んで行動してくんない? 見てるこっちの寿命が縮むっつーの」 「はぁ?」  やれやれ、と言うように息を吐く上野の言動は全く理解できない。  空気読めとか、寿命が縮むとか、意味分かんねぇし。  大体、どうしてお前がここに現われるんだ。  しかも、人の頭を殴っておいて謝罪もなしかよ。 「お前が藤堂さんにくっ付いて3年の教室の方に行くのが見えたから、急いで追いかけてきたんだよ」  俺のじとっとした視線を受けて、上野はあたかも危険回避に成功したかのような様子でそう言った。  どういうことだ? 「……ストーカーですか?」 「ふざけんな!」  冗談半分で言ってみたら勢い良く怒鳴られた。  それはこっちのセリフだというのに。 「お前が藤堂彼織に告白したって学校中の噂だからな。ヤバイことにならないように」 「どういう意味だよ」  上野の発言に、怪訝な表情になる。  放課後の下駄箱で思い余って言ってしまったのだから、俺が彼織さんに告白したのが知れ渡っているのは良いとして、何が「ヤバイ」んだ?  彼織さんのファンか?  だけど、知り合って2週間程度だけど、そんな存在がいるようには思えない。  強いて挙げるのなら、さっきまでここにいたジャマ者先輩だろうか。 「伊原は高校からウチの学校だろ。だから知らないだろうと思って」  そういえば、上野はウチの中等部だっけ。  外部から来た奴と、中等部からの奴ではちょっと空気が違うんだよな。  クラスが同じって言っても話とかあんまりした事なかったけど、空気的に間違いないと思う。 「何を」  と聞きながら、さっきの先輩の言葉を思い出した。 『他には誰も言わないだろうし。でも誰かが言っておかなきゃいけない事だから』  って、つまり上野が言った俺が「知らない」という事だろうか。  先輩の話は、彼織さんに近付くなって事だった。  2人の口ぶりから推測するに、この学校での常識なのだろう。  彼織さんに近付いてはいけない、という校則がある訳でもないだろうに。  ただ単に、近付く奴に対するやっかみだろ。 「お前が藤堂さんに関わると、皆が迷惑するんだよ」 「はぁ?」 「一番後悔するのは伊原自身なんだし、これ以上は絶対に深追いするなよ」  またしても「後悔」かよ。  訳の分からない念押しをされても、納得なんかできる筈がない。  例え理屈が分かったところで、俺が彼織さんを諦めるなんて事は無いに決まってるだろ。 □ □ □  数少ない紙コップの自動販売機を求めて、貴重な休み時間に自分の教室のある隣の校舎まで足を運んだ。  校内に自販機は何台かあるが、大体が缶かペットボトルか紙パックで、その場で注いで出てくる紙コップのものは二箇所にしかない。  特に好きなものが売っているという訳ではなく、この時間にここにいると、教室移動中の彼織さんに会えるからだ。  ボタンを押すと、カコンと軽い音を立てて自販機から紙コップが落ちた。  すぐさま熱い液体が注がれる。  今日は熱いココアにしてみた。  朝からイライラして、いつもより血糖値が下がってる気がする。  カルシウムも不足気味のようだから、牛乳が入ったやつを選んだ。  プラスティックの蓋を開けて熱々のコップを取り出した所で、待ち侘びた声を察知した。  振り向くと、こちらに向かってくる彼織さんの姿が見える。 「彼織さん!」  呼びかけて駆け寄ると、彼織さんはあからさまに嫌な顔をして立ち止まった。 「うーわ、待ち伏せとかあり得ねぇし」 「違いますよ。飲み物買いに来ただけですって。偶然ですね」  たった今出来上がったばかりのココアを見せながら笑って嘘を言うと、冷たい視線が飛んできた。 「それ、前にも聞いたぞ」  俺から距離を取るように廊下の端を歩き出す。  そう言えば、前にも同じ言い訳をしたかも、と反省しながらも、めげずにその横に付く。  都合の良い事に、ジャマ者先輩は一緒ではないようだ。 「でも本当なんですって」 「買いに来ただけなら早く教室戻れよ。授業始まるぞ」  素っ気無く突き放して、こちらに目もくれずに歩く。 「待ってください!」  足早な彼織さんに置いていかれないように、少しペースを上げた瞬間だった。  彼織さんが突然足を止めて振り返ったのだ。 「そう言えばさ」 「!?」  その行動に対処しきれなかった俺は、勢いよく踏み出した一歩で予想以上に彼織さんに接近していた。  そして、二歩目で見事に激突してしまった。  ただぶつかっただけならラッキーなハプニングなのだが、あろうとか手に持っていたココアをその衝撃でぶちまけてしまったのだ。 「すっ、すみません!!」  慌てすぎて、手に持っていた紙コップを握り潰して、まだ残っていた中身も絞り出していた。 「あっつ」  当事者の彼織さんは、意外にも冷静にココアのかかった肩口の辺りを見て「あーあ」と呟いた。 「大丈夫ですかっ!?」 「見れば分かるだろ。大丈夫じゃねぇよ」  不機嫌にそう言って、持っていた教科書やノートを俺に差し出した。  持っていろ、という意味だと思い咄嗟に受け取った。 「お前、これ何? ココア?」  甘い匂いに顔を顰めながらブレザーを脱ぐ。  不謹慎だけど、その仕草にドキドキしてしまう。  って、今はそんな事に鼻の下を伸ばしている場合じゃない。 「下のワイシャツも脱いでください。ヤケドしてるかもしれないし!」 「ここでかよ」 「じゃあ、保健室行きましょう!」 「そりゃ行くけど、お前も付いてくんの?」 「当然です。俺がちゃんと責任取ります!」 「責任て……」  脱力気味にそう言った彼織さんは、やはりココアの染み込んでしまったネクタイを無造作に首から引き抜いた。  ブレザーを着ていた分マシとはいえ、白かったワイシャツも無残な状態になっている。  俺としては、更にその下が気になる。  コップの中は熱々だったから、彼織さんの白い肌にも何かしらの影響があるに違いない。  もし痕が残るようだったら、俺はどうやって償えば良いのか。  これはもう、一生を捧げるしかない!  それが男としての責任の取り方だろうから。

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