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《番外》振り返らずに進め -5【伊原】

 押しつぶされるように、ぐしゃりと冷たいに床に沈んだ。  誰が俺に何をしやがったんだ! と怒りをぶつけようにも、やけに重いものが乗っていて立ち上がれない。 「お前はバカかっ!?」  上に乗っているのは、何故か上野だった。  しかも罵声付き。 「またお前かよ!」  こいつに関しては本日二度目の仕打ちに、怒鳴りたくもなる。  むしろ、この状況で怒鳴らないでいられる人間なんていないだろう。 「藤堂!」  次に聞こえたのは、よりにもよってジャマ者先輩の声だった。  あの場にいなかったクセに、どうしてこうもタイミング良く現われるんだ。  それを言うなら上野もだけど。  どーせまたストーカーしてたんだろうけどな。 「セーフ!? ギリセーフだった?」  彼織さんに駆け寄った先輩は、彼織さんの小さな顔を掴み取らんばかりの勢いでそう訊いた。 「何が?」 「色々な事が!」 「よく分かんないけど、多分セーフ…?」 「と言うか、多分とかギリでとかいう時点でアウトなんじゃないスか?」  テキトーとしか思えない彼織さんのセリフに胸をなでおろした先輩に向かってそう言ったのは、俺を押さえつけるように上に乗っている上野だった。  つーか、いい加減そこからどけよ。 「そんな所に気づいてくれるなよ」  上野の指摘を受けて、先輩は情けない声を出した。 「すみません。でも、ですよね?」  言葉だけで謝る上野の同意に、先輩は心の底から嫌そうな表情で息を吐いた。  俺にはさっぱり意味の分からない話で、かなりイライラする。 「つーか、彼織ちゃんはどうして裸なんだよ」  改めて彼織さんを見た先輩が、かなり動揺した様子で言う。  今まで気づかなかったのかよ。 「裸じゃねぇよ。ちゃんと服着てるだろ」 「ちゃんとは着てないって。しかも、何か赤くなってるし」  半裸の彼織さんを見た先輩の顔が青くなる。  それに関しては俺に責任があるので何も言えないが、そんなに彼織さんの肌を見るんじゃねぇよとは言ってやりたい。 「すぐに治るだろ、これくらい」  周囲の心配を余所に、自分の身体に無頓着な彼織先輩があっけらかんと言う。 「でも、治るまで見せないって可能?」 「……誰にだよ」 「決まってるだろ。と言うか、他の人間に肌見せちゃうなんて完全アウトだし。今この状態も知られたらヤバイっしょ」  何やら訳の分からない事を言い出した先輩は、真剣に考え込んでいるようだった。 「やっぱアウトなんじゃないですか」 「とにかく! まずは保健室!」  上野がしれっと呟いたセリフに、先輩は飛び上がるほどに反応してそう叫んだ。  セーフとかアウトとか、マジで意味不明だし。 「保健室はダメっすよ」  ようやく上野を退かして立ち上がりながら言ってやる。  「何で?」という先輩の視線に、少しの優越感を覚えた。 「それが、今は誰もいないらしくて鍵掛かってんだよ」 「鍵?」  恩着せがましく教えてやろうと思っていたのに、彼織さんがあっさりと言ってしまった。  どうせなら、もっと勿体つけて教えてやりたかったのに。  まあ、彼織さんだから怒らないけど。 「誠人(まさと)呼んでこよう。すぐに開けさせるし」  施錠されていると知った先輩が、やけにてきぱきと打開策を提示した。  知らない名前が出てきてさっぱりだけど、どうやらその人を呼んでくると鍵が開くらしい。  何者なのだろうか。 「いやいや。そんな犯罪まがいの事させる前に、中等部の方に行けばいいと思います」 「よし、それ採用!」 「あざーす」  話に付いていけていない俺の横で、上野が現実的な案を出して採用された。  さすがは内部生。  中等部の保健室なんて、俺には到底思いつかない案だ。  それに、客観的に話を聞いてみて思ったけど、保健室の中に入れても処置をしてくれる先生がいなければどうにもならないんだよな。  ドアぶち破るとか、鍵をこじ開けるとかしても仕方がないと今頃気づいた。 「じゃ、行くぞ藤堂」  どさくさに紛れて、先輩は彼織さんの腕を取った。 「何だよ、付いてくんの?」 「行くよ! そんな格好の彼織ちゃんを1人で校内フラフラ歩かせられないって」  その意見には賛成だけど、その役目は俺だっつーの。  と言うか、まずはその手を放せ。 「フラフラなんかしてねぇし」 「してなくても、攫われるかもしれないだろっ」 「攫われねぇし!」 「いいから行くぞ!」  2人の間に割って入ってやろうとしたのに、悔しい事にそんな隙はなかった。  彼織さんの手を引いた先輩の勢いは凄まじく、あっという間に目的地に向かって歩き出していた。  あろう事か、この俺を置いて! 「彼織さん!」 「お前は行くな」  走り出そうとした俺の首根っこを掴む奴がいる。  確かめるまでもなく上野だ。 「何でだよ! 俺の所為なんだぞ! もし痕でも残ったら責任を取らなきゃ…」 「そーだね。あの人の身体に痕なんか付けちゃったら、責任取らなきゃいけないねぇ」 「そう思うなら、手放せよ」  涼しい顔して人の行動を制することができるなんて、本気で面白くねぇ。  この馬鹿力めっ。 「放したら追いかける気だろ」  分かりきった事を訊くな。 「当たり前だ」 「ヨシタカくんが取らなきゃいけない責任はそーいう事じゃないんだな」 「何だよ、そのムカツク言い方はっ」  ムカツクのは言い方だけじゃない。  わざとらしく吐いた溜め息もだ。  おまけに、人の名前も気安く呼ぶんじゃねぇよ。 「これでも一応心配してんだよ」  完全に口だけで、感情の篭っていない言い方だ。  先輩といいこいつといい、勝手に人の心配されても迷惑だ。  誰もそんな事頼んでねぇっつーの。 「もし本当に責任取らされるなら、お前はきっと五体満足じゃいられないからさ」 「……は?」 「きっと謝っても許してもらえないぞ。すっげぇ心狭いので有名だから」  唐突すぎるセリフだった。  五体満足とか心が狭いとか、何の話してんだこいつ。  まさかとは思うが、彼織さんの事じゃないよな。  彼織さんの心が狭いなんて、上野には人を見る目が無いんだな。  可哀相に。  しかも、五体満足でいられないくらいの暴行を加えられる恐れがあるとも思っているらしい。  謝っても許してもらえないのは仕方ないが、それほど激しい直接的な暴力を振るうような人な訳ないだろう。  彼織さんだぞ。  あの華奢で可愛くて、ちょっと力入れたら折れてしまいそうな人から、どうしてそんな発想が生まれるのか甚だ疑問だ。  そりゃ、さっきは少し油断して殴られてしまったし、怒った彼織さんの迫力に驚いてしまったけど、だからと言ってそこまで酷い事をするなんて考えられない。 「どーでもいいから、邪魔すんのとかもう止めてくれないかな。すっげぇ迷惑だから」  たかがクラスメイトってだけで、人の事に関わりすぎ。  どーせ、こいつも彼織さんに近づけなくて妬んでる連中と同じなんだろう。  俺が彼織さんと仲良くするのが気に入らないだけ。  そんな奴らに負けてたまるかっ。 「迷惑なのはこっちも同じだよ」 「は?」  そう言えば、今朝もそんなような事言っていたな。  深く追求しなかったけど、どう言う意味なんだ?  俺が彼織さんに近付いて、それがどうして迷惑になるんだかさっぱり理解できない。 「だけど伊原がそこまで言うなら、もう邪魔しねぇよ。どの道もう手遅れだし」  謎のセリフを残し、上野も立ち去っていった。  さては、こっちの不安を煽って動揺させようという魂胆だな。  まったく、底の浅い奴め。  だけど、手遅れって……とてつもなく不吉な言葉だよな。

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