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《番外》振り返らずに進め -6【伊原】
* * *
上野の発した不吉な言葉の事は忘れることにした。
どうせ、俺と彼織さんを引き離す為の口から出任せに決まっているから。
翌日も彼織さんの登校を昇降口で出迎えようと校舎に向かって歩いていると、朝一で見たくもない奴の顔を見てしまった。
いっつも邪魔ばかりする例の先輩だ。
しかも、向こうから俺目掛けて突進してくる。
何なんだよ、一体。
「おはよう!」
こっちが嫌な顔をしているのくらい分かっている筈なのに、律儀に挨拶をしてくる。
しかも、顔がすげぇ怖い。
朝の挨拶でする表情じゃねぇし。
どーせまた、彼織さんを諦めろとか言う気だろ。
ここで逃げるのも癪なので、こっちも挨拶してやろうと思った矢先、突然腕を掴まれた。
「何も訊かずに、とにかく逃げろ!」
「はぁ?」
咄嗟に腕を掴む手を振り払った。
意味不明なのは元々だけど、今日の先輩は特に酷い。
「何なんですか」
若干苛立ち気味にそう言って、前に立ちはだかる先輩を避けて前進しようとした。
俺のその動きも止めようと、更に後から腕を掴みやがる。
「いいから! 早く逃げないと……」
先輩が言い終わるのを待たずに、振り向きざまに「いい加減にしろ!」と今にも怒鳴ろうと足を止めた瞬間だった。
何かが視界の端を上から下へと凄い勢いで通り過ぎた。
と、思った時にはけたたましい音を立てて、その何かが地面に叩きつけられていた。
衝撃で俺の足元まで飛んできたのは、何故か見慣れた教科書とノート。
視線をゆっくりと落下物へと移動させて、それが何なのかを考えた。
こんな所にある筈がないもの。
と言うか、落下してくる筈がないもの。
机だ。
教室には腐る程あるが、校舎の外でお目に掛かることはなかなか無い。
しかも、散乱した中身から判断するに、それが俺の机であるのは間違いないようだ。
しかし何故? と机がやってきたであろう校舎を見上げる。
この校舎の3階には、確かに俺のクラスの教室がある。
だからと言って、机が落下してくる理由にはならないって。
呆然と教室のベランダを見上げていると、ひょいっと誰かが顔を出した。
そいつは目が合ってしまった俺を睨んでいるようだった。
はっきり言って知らない奴だ。
「!?」
その誰だか分からない奴の顔を見た瞬間、俺の隣で同じように机の落下に呆然としていた先輩が息を飲んだ。
心なしか顔色が悪い。
先輩の知り合いなのだろうか?
と、再び視線をベランダに向けて固まった。
「な……っ!?」
3階にいたそいつが、ベランダの手すりに登っていたからだ。
目撃したと同時に、何の躊躇いもなく乗り越えやがった!
高さ的に完全に自殺行為だ。
止めようにも、そいつは既に飛び立っていた。
次の瞬間、俺の脳裏には地面に叩きつけられ倒れるそいつの姿が過ぎった。
普通に考えて、3階のベランダから飛び降りたらなんらかのダメージを負うに決まっている。
落ち方によっては、最悪の事態もあり得る行為だ。
しかし、脳裏を過ぎった映像は、あくまでも俺の想像にすぎなかった。
そいつは、まるで猫が塀から飛び降りるような軽やかさで、見事に着地を決めたのだ。
あり得ない。
人として、常識的に確実にあり得ないだろ。
良くて骨折という高さだというのに、そいつは平然と俺の目の前に立っている。
しかも、相変らずすげぇー睨まれている。
相当機嫌が悪いようだ。
近くで見ても、やはり知らない奴だ。
と言うか、校内なのに制服を着ていない。
ウチの生徒では無いという以前に、高校生ですらないのかもしれない。
社会人という雰囲気でもないから大学生だろうか。
ただ一つはっきり言える事は、そいつの威圧感は半端無いという事だ。
予想外の展開続きで立ち尽くしているだけの俺に、3階からやって来たそいつは今度は一転して笑いながら近付いてきた。
その笑顔が、どうしてかとても恐ろしく見える。
分かった。
目が笑ってないんだ。
「ごめんねー。当てるつもりだったんだけど、ちょっとずれちゃったねー」
無残な有様となった机を指して、朗らかに恐ろしい事を言いやがった。
当てるつもりだったって、俺を狙って机を落としたという事か!?
「なっ、何……!?」
あまりにも常軌を逸した言動に混乱して、言葉が上手く出てこない。
こんな危険人物を目の前にして、どう対処すればいいんだよ。
そもそも、こいつは誰なんだ?
「あっれぇ? 久しぶりだね、なっちゃん」
そいつは、圧倒される俺の横で青い顔で立っている先輩に、驚くほど気さくに声を掛けた。
やっぱり知り合いだったらしいけど、先輩が緊張しているのは表情や態度で手に取るように分かる。
にしても、「なっちゃん」て。
あだ名にしても、この人には可愛いすぎるだろ。
「……はい」
か細い声で答えた先輩は、今にも逃げ出しそうな様子だった。
「せっかく足止めしてくれてたのに、俺ってコントロール悪くてごめんね」
「……いや」
痛い所をつかれた、と言うように先輩は下を向いた。
その瞬間を見逃さず、上から降ってきた奴の目が鋭くなった。
「それとも、降ってくるの分かってて助けたとか?」
ピリッと、空気が嫌な感じに冷えたような気がした。
「助けたって言うか、危ないから教えたっていうか……」
「それを助けたって言うんじゃねぇの?」
言い訳をしようとした先輩の言葉を遮って、降ってきた奴が凄む。
訳が分かっていない俺は、ただ立ち尽くして2人の会話を聞いているだけだ。
それでも、今のやり取りを聞いていれば、もしかしたら先輩が落下してくる机から俺を助けてくれたんじゃないか、という発想に辿り着く。
朝から攻撃される覚えなんて全くないけど、それから助けてくれたなら、実は良い奴だったのかもしれない。
彼織さんの事では、ムカツク奴ってのは変わらないけどな。
「でも、本っ当に危ないし、当たったらシャレにならないし」
「俺、シャレでやってるつもりないけど」
「……知ってます」
「じゃあ、ちょっと黙っててくれる? なっちゃんには危害加えたくないから」
「危害は誰にも加えちゃいけないと思いますけど」
「それは、俺に何か言ってんの?」
既に俺の中で危険人物に認定されたそいつと頑張って会話を成立させていた先輩だったが、殺気すら覚える威嚇に圧倒されてぐっと言葉に詰まってしまった。
そもそもこいつが誰なのか知らないけど、危ない奴という事は大体理解した。
そんな奴とここまで言い合えるなんて、先輩もなかなか根性あるっぽい。
「藤堂だって、知ったら怒ると思いますよ」
どうでも良い所で感心なんかしてしまっていると、不意に先輩がそんな事を言い出した。
まるで切り札のような言い方だった。
藤堂というのは、言うまでもなく彼織さんの事だ。
その名が、どうして今ここで登場するんだ?
「怒ってんのはこっちだ」
先輩の切り札をあっさり踏みつけて、降ってきた奴は空気を凍りつかせた。
こいつ、彼織さんと関係があるのか?
こんな危ない奴が?
冗談だろ。
可憐で可愛い彼織さんと、こんな奴にどんな接点があるっていうんだ。
ふと顔を上げると、図らずもそいつと目が合ってしまった。
どうしたら良いのか戸惑っていると、向こうがヘラリと笑った。
「て事だから、お兄さんと少しお話しよっか、伊原くん」
「は?」
馴れ馴れしく人の肩に腕を回してそう言う。
俺はこいつが誰なのか知らないのに、こいつは俺を知っているようだ。
理由は不明だけど、狙って机を当てようとしてきたくらいなんだから当たり前か。
「弓月 さん!」
ちょっとやそっとじゃ逃げられない感じに力が入った腕に引き摺られるようにして歩き出すと、先輩が慌てて叫んだ。
降ってきた奴が止ったので、弓月というのがこいつの名前なんだと分かった。
「あのさぁ、なっちゃん。いい加減にしてくれないと、強引に黙らせちゃうよ」
呼び止めた先輩を、心底鬱陶しそうに睨んだ弓月が低い声でそう言った。
間近で聞いてしまった俺もゾッとするような声音だった。
「何なんだよ、あんたは」
「んー?」
段々苛立ってきて我慢できずに訊いたが、気の無い返事が返ってきただけだった。
こいつ、俺に用があるっぽいのに、全然相手にしてねぇ。
ムカツク。
「いきなり人の机落下させて、危ねぇじゃねぇかっ」
「俺的にはお前の方が危険なんだけど」
ようやくこっちを見たそいつが静かに呟く。
表情というよりは、目が怒っていた。
「彼織に怪我させたのはお前だろ」
怒りの理由が分かる明瞭な一言だった。
それは、俺自身もとても反省していた事だったから。
だからといって、こんな理不尽な攻撃をしていい事にはならないし、こいつにされる覚えもない。
「聞けば、彼織が嫌がっているにも関わらず前々から言い寄ってるらしいな」
「そんな事、あんたに関係無いだろ」
「あるんだよ」
押さえつけるように言われて、カチンと頭に血が上る。
口だけじゃなくて、手も出るぞ、というその時だった。
「ちょっと待ったぁ!!」
どっかで聞いたような叫びが響いた。
つい昨日くらいに聞いたような。
「ここでそれはさすがにマズイです!」
どこからやってきたのは知らないが、今日も何故か上野が飛んできて、俺を拉致ろうとする弓月に向かって叫んだ。
こいつ、本当に俺のストーカーだな。
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