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アルルの暮らす部屋は、繁華街のすぐ近くにある。そしてその繁華街へ踏み込めば、ゲイ風俗店やゲイバーがいくつもあって、淫魔にとって最も食事に困らないだろう環境が調っていた。
アルルの部屋に居候しているリーネは、家賃と食費の代わりに家事や雑用をこなして過ごしているが、それで一日が終わるわけもなく、またアルルからはしつこく人間の男と交わるように言われていた。
だから今日も、日の暮れた繁華街に足を運んではみたものの、美味しそうな男達が通り過ぎていくのを眺めるばかりだ。淫魔は人間を誘惑する生き物だから、黙って立っているだけで向こうから声を掛けてくることもあったが、リーネはどうしてもそれを受け入れることができなかった。
──人間みたいな食事ができたらよかったのに……。
淫魔は生きた人間の精を栄養にするが、人間は死んだ動植物を加工して食べる。そして性は性で食欲とは切り離されていた。
淫魔のリーネにとって、食欲と性欲は不可分で、食欲を満たすには生きた相手と交わるしかなかった。それが物を言わない動物だったらまだ気が楽だったかもしれない、と思う。人間は色々なことを考えていて、複雑な感情を持っていて、言葉を操れば計略も巡らせる。リーネにはわからないことを考えている相手と交わるのはどうしても怖くて、未だアルルに幼子のように面倒を見てもらっていた。
「うわ、可愛い。誰か待ってるの?」
不意に声を掛けられてリーネはびくりとする。見れば洒落たコートを着て銀のアクセサリーをつけた若い男が、リーネを見て微笑んでいた。
男の目に好意と性欲を感じて、このまま言うなりになれば食事にありつけるのだろうことはわかったが、リーネはやはり尻込みしてしまった。
「あ、あの、俺……」
「なんかすごくいい匂いするね、君。ちょっとだけでも話さない?」
会話をして、どんな人間か確かめて、食事をするかどうかはそれから決めてもいいのだと頭ではわかっていても、リーネはとても平静に話をできる気がしなくて、目を逸らした。
「ご、ごめんなさいっ……」
そう言うとあとはもう男の反応を見るのも怖くて、路地を小走りに抜けて逃げ出してしまった。またアルルに叱られる、と思ったが、どうしても勇気が出なかった。
アルルは人間に混じって風俗で働きながら、満足な食事をし、さらにお金まで稼いでいるのに、自分は自分一人の食事すらままならないのかと思うと情けなかった。人通りの少ない道でうなだれていると、ガシャンと激しく金網の鳴る音がした。
驚いて顔を上げると、近くのフェンスに男がもたれかかっているのが見えた。酔っ払いか、と思って見ている間に男はずるずるとその場に座りこんでしまう。
黒いコートの袖から出た白い手がかろうじて金網をつかんでいたが、それもすぐに力尽きたように落ちてしまった。
「えっ……」
男はそのまま動かなくなって、周りに連れらしき人間の姿もなかった。日が暮れて風はいっそう冷たい。酔っ払いでも酔っ払いでなくても、こんなところで寝てしまえば風邪を引くだけでは済まないのではないかと思われた。
救急車か、警察か、誰か呼ばなければ、と思いながら、リーネはおそるおそる男に近付く。動かない男の顔をそっと覗くと、まだ若い男だった。やはり酒が入っているようで、顔がずいぶん赤かった。
「あ、あの、こんなところで寝ちゃだめですよ」
声を掛けてみると、男の瞼が少し動いて、思いの外はっきりとした黒い目がリーネを見た。
「……あぁ……邪魔?」
興味のなさそうな声だったが、意識のあることに少しほっとしてリーネは言った。
「そうじゃなくて、こんな寒いところにいたら凍えちゃいますよ。おうち遠いんですか? タクシーつかまえます?」
男は眉を寄せて首を振った。そしてくぐもった声が言う。
「……いやだ、帰らねぇ……」
「じゃ、じゃあ、どこか寒くないところに……」
男はまた首を振って、頭をかき抱くような動作をして呟いた。
「……一人になりたくない……」
リーネは瞬く。酔っ払いであることは確かで、どこまで状況を理解しているのかわからなかったが、だからこそそれは本心に思えた。
「……でも、ここだと体に良くないから……あの……誰か呼びましょうか……?」
男の揺らいだ目が一瞬リーネを見たが、すぐにそれは前髪に隠れてしまった。その代わりに男の手が伸びてきて、リーネの腕をぎゅうとつかんだ。
「あ、あの」
「…………一人になりたくねぇ……」
それはほとんど独り言で、リーネは途方に暮れながら、男の手がすでに冷えているのが気になって仕方がなかった。
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