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第64話
逃げないよう男に腕を掴まれたままのましろは、何が起こっているのか確かめようと耳を澄ました。
だが、室外の様子を窺うまでもなく、すぐに複数の足音と言い争うような声が近づいてくる。
「やめろ、ここには、客人が……っ」
「取り壊す費用がなくて何年も放置している別荘に客人?せめてもう少しまともな嘘を思いつけないのか」
乱暴にドアが開き、押し留めようとする大介を押し退けて入ってきた人物は、ましろが思い描いた誰とも違っていた。
「(ちー様……!?)」
まさか、何故、天王寺がここに?
無論、優しい人なので、ましろの窮地を知れば助けに来てくれただろうとは思うが、月華及びその身内のうちの誰かよりも早いというのは想定外だ。
大介か澄子のどちらかが呼んだのであれば、こんな風に怒ったりはしていないと思うので、天王寺は自らこの場所を探し当ててきてくれたのだろうか。
ベッドの近くで男に腕を掴まれたままへたり込んでいる自分の状態も忘れ驚いていると、室内に一歩を踏み出した天王寺と目が合う。
その途端、ぐっと彼の眉間が寄り、もともと険しい表情が、更に剣呑な気配を纏った。
殺意すら感じる相手にいきなり距離を詰められ焦った男は、ましろを解放して「これは……」とかもごもご何か言いかけたが、それらは天王寺の拳の一振りで掻き消えた。
荒事と無縁そうな男(天王寺もそんな気配はないのだが……)は一発で床に沈み、追い討ちをこらえるような表情の天王寺は、予想外の出来事の連続に目を丸くするましろを振り返る。
「ましろ」
「ちー様……どうしてここが……」
ふわりと彼のジャケットで包まれ、そのあたたかさに、シャツが腕に引っ掛かっただけのほぼ全裸だったことを思い出した。
慌てたましろが脱がされた衣服を探すまでもなく、手際良く拾い集めて渡される。
「自分で着られるか」との気遣わしげな問いに、コクコクと頷いた。
先程は唐突に起き上がったせいで目眩がしたが、今は特に問題なさそうだ。
「千駿」
慌てて服を身に付けていると、天王寺が呼ばれたことにはっとして、そちらを振り返る。
表情を引き攣らせ、怒りに震える澄子は、天王寺に詰め寄りはじめた。
「千駿、どうしてあなたは私達の邪魔ばかりするの?私達はこんなに困っているのに、どうしてよ」
言葉の意味が理解できず、思わず澄子を注視する。
彼女は、本気でこんなことを言っているのだろうか。
必死の表情からは、彼女が本当にそう感じているのだということが伝わってくるが、どこをどうしたらそんな言葉が出てくるのか、理解できない。
どうして、と問いたいのは、彼女ではないだろう。
彼が、今まで、どれほど。
ましろは、ぐっと唇を噛み締めると、自分でも制御できない強い感情に突き動かされ、天王寺の前へ出る。
「……ましろ?」
訝しげな声に、おとなしくしていろという響きが混じっていることに気づいても、それでも止まらなかった。
天王寺の母を見据え、口を開く。
「貴方は今まで一度でも、彼が何を望んでいるか、考えたことがありますか?」
天王寺は、自分の過去を語る時、一度も「親のせいで」という言い方はしなかった。
それは優しさというよりも、彼の誇り高さや、責任感の強さ故だろう。
それまで行ってきたことは、誰かに押し付けられたことではなく、自分の選んできたことだと彼は考える。
一人で生きていける歳になっても、天王寺は両親を切り捨てずにきた。
援助をして、払う必要のない借金を肩代わりして。関係ないと切り捨ててしまえたはずなのに、ずっとそうせずにきたのは…。
「理不尽だと責める前に、何故、自分の息子が、そうせざるを得なかったのかを、一度でも考えたことはありますか?」
肉親の情、というものは、ましろにはあまりピンとこないけれど、家族愛は月華たちに教えてもらった。
ただひたすらに、相手に甘え、求めることは、愛なんかじゃない。
「貴方達が、今も自由でいられるのは、彼のおかげなのに……!」
天王寺が援助をしていなかったら、彼らは既に悲劇的な末路を辿っていたかもしれない。
今もまた、天王寺が月華よりも早く来たことで、彼らは命を繋いだというのに。
「………………」
だが……目の前の澄子は、何を言われているかわからないという顔で、ましろを見ていた。
言葉を尽くしても、何も伝わっていない。
だから何?とでも言いたげな視線は、考えようとすらしていないのがありありとわかり、ましろは言葉を失った。
「ましろ、もういい。服は着たな。行くぞ」
立ち尽くすましろに、再びジャケットを着せかけると、天王寺はその手を引いて歩き出す。
「ちー様……、」
彼がもういいというのならば、これ以上何かを言うのも憚られ、ましろもおとなしく従う。
「千駿……!」
澄子の呼ぶ声に、天王寺が振り向くことはなかった。
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