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3.ヒート

「ん…?」 つばきの部屋の前を通りかかった秋月楓は聞き慣れない物音に足を止めた。 (確か執事長につばき様をお願いしたはずなんですが…) いつもであれば専属である楓が行うはずの朝の支度を、今日は出入りの業者との打ち合わせがあったため、父である執事長にお願いをしていた。 ポケットから懐中時計を取り出し時刻を確認すると、執事長に依頼していた時刻は優に過ぎていた。 (おかしいな…。もうサンルームに移動されていてもおかしくない時間なのに…) つばきは着替えてお茶を一杯飲むとサンルームに移動し、そのまま軽めの朝食をとりつつ新聞を読むのが日課であった。 だが、今明らかに物音がするのは、誰もいないはずのつばきの部屋からだった。 「つばき様…いらっしゃるんですか?何か物音が…」 つばきの部屋の扉をノックをするも反応はなく、不審に思った楓が扉を開けると、そこには予想もしていなかった光景が目に飛び込んできた。 パジャマを引きちぎられ、床であられもない姿になっているつばきに執事長が覆いかぶさり、口を塞いでいたのだった。 「なにをしているんですか?!」 楓は血相を変え、慌てて執事長を羽交い締めにすると、力を込めてつばきの上から引き離した。 やっと解放されたつばきは、まだ恐怖に顔を引き攣らせながら引きちぎられたパジャマの前を無理やり合わせ、必死に後ずさった。 だが、執事長はつばきの元に戻ろうと必死に手足をバタつかせ、楓の拘束から全力で抵抗し続けていた。 「オ…メガ…!オ、メガ…!」 「これは…。ヒート?!つばき様、廊下のチェストにある特効薬を持ってきてください!」 うわ言のように何度もΩを求め叫び続ける執事長の様子に、楓はΩの発情期により誘発されたαの発情、ヒート状態と判断して、抑制するための特効薬を持ってくるようにつばきに指示をした。 「お、俺が?」 「はやくっ!」 「わっ、わかった!」 つばきはなんとか立ち上がるが、その足は恐怖で震えていた。 それでもつばきは、今、目の前で自分のために執事長を羽交い絞めにしてくれている楓の姿を見て、自分を奮い立たせ、部屋を出ようとした。 だが、つばきが離れようとしていることに気が付いた執事長は、つばきを追いかけようと、鬼のような形相で楓の腕から逃げようと抵抗を強めた。 「オメ、ガ!!オメガ…!!」 「はやく!つばき様!!」 「ま、待ってろ…!」 服が乱れたままなことも気にせず、つばきは一目散に廊下に置かれた緊急用の特効薬を取りに向かった。 香坂家では使用人にΩはいなかったが、出入りのある業者も多いため、念のため廊下に置かれたチェストの引き出しに特効薬が準備されていた。 つばきは楓に言われた通り、引き出しから特効薬が入った箱ごと取り出すと、部屋に戻ってきた。 「オメガっ!!」 「っく…!!」 (なんて凄い力だ…) 一度消えたつばきの姿が再び執事長の視界に入ると、まるで獣が餌を欲しがるように叫び、先ほどより更に強く、楓の腕の中で抵抗し始めた。 暴れ続ける執事長のせいで、楓の体力もそろそろ限界を迎えていた。 楓は苦しそうな顔を浮かべるが、それでも力を振り絞って執事長を羽交い絞めにして押さえつけていた。 (私が離してしまっては…つばき様が…) ヒート状態のαは特効薬を使わないかぎり、Ωを犯し、己の欲望を吐き出すまで発情が止まることがない。 今、自分が力尽きて手を離してしまったらと末路を想像するだけで楓は背筋が凍りそうになり、残っている力を振り絞って執事長をさらに強く抑えつけた。 つばきは執事長の変わり果てた様子に怯んで動けなくなりそうになるが、手が震えながらも、特効薬の入った箱を開け、中に入っていたペン型の注射器に特効薬をセットした。 「はやく…。それを…執事長の首へ!」 楓に言われた通り、つばきは注射器の針を執事長の首元に刺し、特効薬を注射した。 執事長は注射された瞬間、目を大きく見開き「うっ…」と低いうめき声を上げると、そのまま力が抜け、楓の腕の中で意識を失った。 その様子に安心したのか、つばきは緊張の糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。 「つばき様…。少々お待ちくださいね…」 楓はつばきを安心させるため、いつものように優しく声をかけ、気絶した執事長を抱きかかえようとする。 だが、楓の腕にはもうそんな力も残っておらず、しかたなく執事長を引きずるようにしながら廊下まで引っ張り、廊下の柱の壁に寄りかからせた。 (無礼をお許しください…) この状態で執事長を放置するのも心配だったが、楓の一番の心配はつばきだったため、楓はそのままつばきの部屋に戻り、念のため鍵をかけた。 「はぁー…」 鍵をかけたことでやっと緊迫感から解放され、扉に向かって楓は大きな溜め息をつく。 (よしっ…) 楓は自分に気合を入れてから振り返り、床に座り込んだままのつばきに近づくが、つばきは放心状態で、楓が近づいても目が合わず、微動だにしなかった。 膝をついてつばきの前に楓はしゃがむと、冷や汗で貼りついたつばきの前髪を優しく掻き上げ、そっとおでこに触れた。 すると、急に意識が戻ったかのように、つばきの身体がびくっと跳ねると、おでこに触れていた楓の手を、つばきは勢いよく払いよけた。 思っても見なかったつばきの反応に、楓は叩かれた手を見つめてしまうが、慌てて手を引っ込めた。 「驚かせてしまい…申し訳ございません。その…お怪我はございませんか?」 「ご、ごめっ、違うんだ…」 必死に弁解しようとするつばきの唇は、まだ恐怖で青ざめていた。 「いえ、お気になさらず。落ち着かれるまで、私は少し離れておきますね」 そう言って楓はつばきから距離をとろうと立ち上がろうとすると、つばきは「待った!」と言って楓の首に腕を回し勢いよく抱きついた。

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