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4.Ω

「つばき…様…」 急なことで動揺してしまった楓だが、すぐに回されたつばきの腕が小刻みに震えていることに気づいた。 (あれだけのことがあれば当たり前か…) 「つばき様…」 楓はつばきを安心させようと、ゆっくり力をこめて抱き締め返した。 そして、つばきの頭をそっと撫でた。 「怖かった…ですよね。助けるのが遅くなり申し訳ございませんでした」 「っ…。ほんとだよ…。くそ、楓のくせに…。楓のばか…」 普段通りのつばきの口の悪さが出てきて、楓はもう一度安堵の溜め息をつく。 しばらくそのまま頭を撫でながら抱きしめていると、いつの間にかつばきの震えも収まっていた。 「もういい…。暑い、離せ…」 つばきはそう言って、楓の胸を押して自分から体を離した。 照れているのか、つばきは顔は背けたままだったが頬が紅潮していた。 あまり見慣れない反応が可愛く、顔がにやけそうになるのを必死に抑えていた楓だったが、次第に冷静になってくると、ある疑問に辿り着いた。 (なぜ、執事長がヒートに…) 執事長の行動は、あきらかにΩの発情の誘発によるαの発情、ヒートの症状そのものだった。 しかし、この屋敷にはΩは使用人ですら在籍していないはずで、目の前のつばきもαのはずだ。 だが、先ほどの執事長はたしかにつばきに向かってΩと何度も叫んでいた。 それは、どう考えても、つばきがΩでないと辻褄が合わなかった。 「つばき様…もしかして…」 「んー…。どうやら俺、Ωだったみたいだな」 事の重大さを理解していないのか、あっけらかんと言うつばきに、楓の方が動揺を隠せない。 「な…。だって旦那様も奥様もαで…。つばき様がΩなわけが…」 香坂家はいわゆるα至上主義の家柄で、代々当主はαで結婚相手もα以外に認めておらず、Ωが生まれてきたことは一度もないと楓は執事長から聞いていた。 「知らね。大方、お母様がどっかのΩと浮気して俺が生まれたんじゃねーの」 「そんな…」 (今までつばき様はαだと…。だから私は…) 「ふっ。お前までそんな残念そうな顔するのな。悪かったな。みんなの期待に応えるαじゃなくて」 「いえっ…。決してそういうわけでは」 楓は必死に取り繕うとするが、その様子につばきは一瞬悲しそうな表情を浮かべた。 だが、すぐに本来の調子を取り戻したかのように、ほくそ笑んだ。 「お父様、どんな顔するかな。見ものだよなー。海外出張から帰ってくるのは二週間後だったっけ。すげぇ楽しみ。家を出ていけとか言われるのかな?」 つばきはスッと立ち上り、父親の慌て姿を想像したのか、冷たい笑みを浮かべていた。 目は笑っておらず、口角だけ上がっているだけのつばきの冷たい笑みに、楓は背筋にゾクッとしたものを感じた。 そんな様子のつばきを、楓は膝立ちのまま、ただ見上げることしか出来なかった。 「んっ?っていうか楓は俺になにも反応ないってことは…。もしかしてΩなのか?」 「…!」 「なんだよ。それなら最初からそう言えば…」 「言えるわけ…ないじゃないですか…」 「なんで?」 「なんでって…。私だって父も母もαなのに、私はΩなんですよ。つまり私は…執事長の…父の本当の子供ではないんですよ。もし、そんなことがバレたら…」 (このお屋敷に、いられなくなってしまう…) 「だから、ずっと…。ずっとΩであることを抑制剤で隠してきたのに…」 楓は今までΩであることは隠しつつ、優れた能力を持つαに見えるよう、必死に装って生きてきた。 楓の父親である執事長は、つばきの父同様にα至上主義の考え方があり、自分の息子がΩで、しかも他人の子供だと知ったら、愕然とし、絶望することは容易に想像がついた。 だが楓にとって、父親の落胆よりも、この屋敷に、つばきに仕えることが出来なくなってしまうことの方が耐え難かった。 (おそらく…執事長が目を覚めせば、つばき様がΩということだけでなく、つばき様の発情期に反応しなかった私も、Ωであると気がつくでしょう…) 楓自身、いつかはバレてしまうだろうという覚悟はしていたが、今までの努力がすべてが水の泡になってしまった事実を改めて実感すると、力が抜け、立ち上がることが出来なくなってしまった。 「いいじゃん、別に。もうバレたものは仕方ないし。俺と一緒にΩであることを利用して、楽しもうぜ」 つばきは笑いながら、楓に手を差し出した。 だが、楓はその差し出された手を取ることは出来なかった。 「つばき様は…一体、何を考えているんですか?」 「うーん、内緒。だいたい、俺の美貌とΩのフェロモンがあれば、大抵のαは思い通りだろ。世の中の中心だと思っているαに一泡吹かせてやろうって。あー、これからが楽しみ」 この世の中は、αを惑わす発情期があるがゆえ、Ωは最底辺の扱いを受けている。 それなのに、今、目の前に立っているつばきは、まるで何かの賭け事が始まったかのようにワクワクした様子で笑っていて、楓には全く理解出来なかった。 「あなたって人は…」 「楓にはまだ理解できないだろうな。さーてと、まぁ、とりあえず俺は着替えようかな。楓は抑制剤持っているなら、とりあえず分けて。支払いは後でするから」 Ωの発情期抑制剤は海外で開発され、まだこの国では一社のみが独占して製造をしている関係で、とても高価なものだった。 そのため、標準的な生活をしている家庭に生まれたΩでも、日常的に発情期抑制剤を購入して服用することは難しい状況だった。 楓はある方法で発情期抑制剤を手にしていて、自分のαとしての仮面の生活を死守していた。 それは、周りにΩだとバレなくすることはもちろん、発情期の本当の恐ろしさを知っていたからだった。 「そういえば、お身体に変化はないのですか?」 「変化?別に…。ちょっと身体が熱くてだるいくらいかな?何?発情期ってこんなんじゃないの?」 「あっ…いえ…。では、私が戻るまで、お部屋の鍵はかけておいてください…」 楓はそう言って、足元がふらつきながら立ち上がると、つばきの部屋を後にした。

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