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第3話 クリスの恋(5/8)

来るべくして訪れた、ひとつの試練。 クリスが修道院で生活するようになって三年。 毎年新しく修道士が配属され、以前から居た者が出ていくため、時が経つほどクリスは周囲と馴染んでいった。 司祭として配属された当初のことなどもう知る者はおらず、快適な修道士生活を満喫していた矢先、クリスへの昇格試験が実施されることとなったのだ。 「ユーベル様、少しいいですか?」 「あれ、クリス。どうしたの?」 大聖堂の上階に、ユーベルは居を構えていた。 ヒルダよりも立派なその部屋に、あてがわれた当初のユーベルは恐縮してばかりいたが、最近ではすっかり慣れたようで、彼の部屋としてしっかり定着していた。 「その…試験を、受けることになりまして」 招き入れられたその部屋で、クリスがぼそぼそと呟く。 「あ…そっか、もうそんなに経つんだね」 あれから三年。 司祭から修道士への異例の降格処置を施したクリスの経歴は、更新されないままでいた。 しかしそれも三年という期限の上で成り立っていて、今回の試験を受けないことは、聖職者としての道を閉ざされることと同義だった。 「ユーベル様、僕、不安です。あの頃から良くなったとはいえ、今でも、夜中に一人で居ることが怖くて堪らない日があるんです」 三年が経ち、クリスはユーベルになら、なんでも正直に話せるようになっていた。 それと、周りから浮きたくないという理由を付けて、ユーベル様と呼ぶのも許して貰えるようになった。 当のユーベルは距離を感じると嫌がっていたが、呼び続けることによって強引に慣れさせた。 クリスの、ユーベルへの想いは、日々の中で着実に積み重ねられていた。 「今のクリスなら、大丈夫だと思うけど…元々賢いから、落ちることもないだろうし」 「…はい」 「…なんて。意地悪言ったね。おいで、クリス」 本当は、本人の意志とは関係なく受けざるを得ない試験だと、二人ともわかっていた。 特にクリスは、この三年こそが甘美な夢だったのだと考えて覚悟を決め、最後に甘えておこうと、ここを訪れたのだ。 そんな思惑に気付いていたユーベルが手招きをして、クリスを腕の中に迎え入れる。 「…背、伸びたね」 前は胸に頭を抱くのがちょうどいい高さだったのに、クリスの額はユーベルの肩口にあった。 「成長期なので、まだまだ伸びます。帰ってくる頃には、追い越してるかもしれません」 「ふふっ…そうかもね」 クリスはユーベルの司教の服に顔を埋めて、深く息を吸い込んだ。 洗濯したての爽やかな香りが、クリスの心に染み渡る。 そんなことも知らずに暢気に笑うユーベルは、日頃は人の思いに敏感なくせに、クリスの抱く淡い恋情にはまるで気付かずに居た。 「ユーベル様、待っていてくれますか?」 「もちろん。ここに居るから、無事に帰っておいで」 「では、戻って来られるように、おまじないをかけてください」 「おまじない?」 顔を上げたクリスが、空色の瞳でユーベルを捉えて、少し笑った。 「キスしてください」 ほんの一瞬だけ、ユーベルが動揺した。 クリスはそれを見逃さず、ユーベルが何かを言う前に、先手を打つ。 「唇に、です」 「は…え? お、お祈りの、でしょ?」 今度ははっきり動揺した。 いつもは静かに佇んでいる青い瞳が揺れる。 ユーベルはクリスの言うキスを、いわゆるキスではなく、お祈りの一環として行う額へのキスに必死で置き換えようとした。 しかしクリスはそれを許さない。 「違います。わかるくせに」 「ま、待って、だって、そういうのって普通――なんで、男の私に…」 「…それも、わかるだろ。ユーベルは僕よりずっと、賢いんだから」 クリスの口調が他人行儀な敬語を捨てる。 それはユーベルが望む、彼本来の話し方だった。 「…出来ないよ。クリス、君はきっと、勘違いしてるんだよ」 そんな答えは必要としていなかった。 ただ、唇に少し、彼の温もりを灯して欲しかっただけなのだ。 勘違いと言うなら、それでもよかった。 「それなら、これで気持ちの整理をつけますから。だから一度だけ、お願いしますユーベル様」 「……」 クリスが猫を被って懇願すると、その真剣な眼差しを受け止めるユーベルは呆れたように溜め息をついた。 それから、クリスの顎をぐっと掴んで、 「馬鹿」 そう言って、ほんの一瞬だけ唇を合わせてすぐに離れた。 たったそれだけでも、クリスは欲していた以上の幸福を彼から与えられた。 唇に残る確かな感触。 これだけで、二年に渡る巡礼の旅も、乗り越えられる自信が湧いた。 「馬鹿でもなんでもいいんだ。ユーベル、ありがとう」 そう言って柔らかく微笑んで立ち去るクリスの後ろ姿に、ユーベルは強い不安を感じながら口元を拭った。

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