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第7話 流行り風邪(3/12)

大聖堂の中はかつてない有様だった。 あちこちで咳き込む声が聞こえ、動ける者はみな仲間の看病に駆けずり回っていた。 「申し訳ない、ユーベル…」 床に伏せった神父が赤い顔で呟く。 力なく悔しがる彼は30半ばの若い神父だ。 いつも被っている聖帽は傍らに置かれて、オールバックに整えてあった黒髪は汗で乱れている。 彼は教会側のトップの立場で、聖堂と教会が共存するここで、司教達を様を付けずに呼べる、数少ない内の一人だった。 「いえ、しかし困りましたね。神父様がこの調子では…しばらく大聖堂を閉じて、集中的に療養した方がいいかもしれません」 「あぁ…いや、それでは街の方々が心配です。ここを心の拠り所としている方も、少なからずおられますからね」 「それはそうですが…」 ユーベルと神父のやり取りを、そばで介抱していた修道士の少女が見ていた。 難しい話の時はあまり理解できず、ただいつの間にか深刻な事態に陥っているということはわかった。 苦しそうな神父の汗を甲斐甲斐しく拭っていると、会話が終わったようだ。 部屋を出るユーベルと共に、一旦下がるよう言いつけられた。 「…君は、大丈夫?」 神父の部屋の重厚な扉を出たところで、上から声が降る。 気に止められることなどないと思っていた少女は、驚いてばっと顔を上げた。 「あぅ…、っはい! 平気です、ありがとうございます」 「そっか。少しでも具合が悪くなったら、すぐに言うんだよ」 そう言って、ユーベルは林檎のように赤い頭をポンポンと撫でた。 密かに憧れていた人に優しく声を掛けられて、少女は熱くなる頬を隠すように俯いた。 司教の中でも一番優しい目をしていて、誰にでも隔てなく接するユーベルを見ていて、自分もこんな風になりたい、と思ったのが少女が彼を目で追い始めたきっかけだった。 「はふっ…ほぁだっ大丈夫です! 私には、おばあ様がくれたお守りがありますのです!」 「?」 まずい、動揺してるから、変な子だと思われてるのかも…と挙動不審になってしまった少女は誤魔化すように、肩を覆うケープをがばっと捲り上げて胸元の首飾りを見せた。 「こっここ、これでひゅ! あう…わ、悪いことから守ってくださるって、おばあ様がくださったのです!」 「えっ…と、」 面食らったような顔のユーベルが目を逸らしてから、何かに気付いたようにお守りの首飾りをもう一度見た。 そして、真剣な表情で口を開く。 「ねぇ、このお守りはいつもこの色?」 言われてお守りに目を向けると、いつもは青色に佇む中央の石の中心が、赤黒く渦巻くのが見えた。 「えっ…!? ち、違います、いつもは綺麗な青なのです…どうして…」 なんだか気持ち悪い、と少女がお守りを見ていると、腰を屈めたユーベルが目の高さを合わせた。 「エレノア、ちょっと一緒に来てくれる? 大事なことなんです」 「ひゅ!? うぁ…、っ、はひっ!」 少女の頭から、お守りのことなんか一瞬で吹き飛んだ。 こんなに間近で目が合ったのは初めてで、深い色なのに透き通るような青い瞳がすごく綺麗で、どうして名前を知ってるんだろうか、なんて考えながらついて行こうとすると、ユーベルが咳払いをした。 「あの、もう降ろしていいよ。思い切りがいいのはいいけど、女の子なんだから気を付けてね」 「えっ…はひぇっ!? ごめっ、ごめんなさい! お見苦しいものをお見せしまひゅた!」 言われるまで気付かなかった。 ローブの上に羽織ったケープとはいえ、いつも隠れている場所が晒されていたのを自覚した瞬間、とてつもなく恥ずかしくなったエレノアは、ぐるぐると目を回しながら腕を下ろした。

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