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第6話

 ――なんか、いる……! ……る?  きゅっと喉元を締め上げられたように驚いたのはつかの間で、気を落ち着けてみれば、光る目を持つそいつは、生き物ではなかった。  くまの形をした人形だ。  といっても、しおんが目にしたことのある、もっと簡素な布でできたものとはまったく別物で、本物の生き物のようなふわふわした毛を持っている。耳のところに縫い付けられた小さな布には、棚に並ぶ本と同じようなうねうねとした字のような模様のようなものが織り出してある。おそらくはこれも舶来物だろう。  人形って、だいたいは親が買ってくれるもんだ。  しおんの眉間に、無意識のうち皺が刻まれる。  立ったりしゃがんだりしたせいで、風呂上がりに着た服の生地が上等であることはあらためてよくわかっていた。  上等な服。上等で本物のような人形。龍郷が子供だった頃を思い描くことができなくとも、ひとつだけはっきりとわかっている。  なにもかも俺とは正反対だ。  すべてを持っていて、好きに人を動かせる側の男。 「この部屋に金目の物はないぞ」  張本人の声に腹を決めて机の下から這い出すと、着替えを終えた龍郷が戸口に体を預けて立っていた。乱れた髪も元通り整えられて、相変わらず咎めるというより楽しんでいるような風情だ。 「音楽隊に入れば食事と住む場所の世話はしてやると言っているだろう」  昨日の今日で他人の生き方を変えられるとでも思っているのだろうか。やりたいことも行きたいところもないしおんだが、そんな物のような扱いには腹が立つ。 「俺はそんなものに入りたくない」  あらためてはっきり告げても、龍郷には微塵も堪えた様子もなかった。 「そうはいかない。支配人に払った金の分くらいは働いてもらわないと」 「は? ……あいつ」  昨日たまたま紛れ込んだだけで、自分と支配人は無関係だ。そもそも水をぶっかけて追い立てたのはあいつだったのに、ちゃっかり金を受け取っているなんて。  所詮この世はそんなものだ。最初から恵まれた奴と、狡く図太い奴が得をする。いまさらそんなことをまくしたてる気にもならず、しおんは頑強にくり返した。 「とにかく、俺は人前に出るのなんて、いやだ」 この髪と瞳のせいで、どこへ言っても奇異の目で見られた。ただでさえ隠れるように生きてきたのだ。百貨店の音楽隊だなんてとんでもない。  百貨店に買い物に来られるような奴らはどのみち恵まれている。そんな奴らをなにも持たない俺が楽しませてやらなきゃいけない理屈がどこに――ふつふつと憤りがわき出して止まらないというのに、龍郷はまったくどこ吹く風で、面白そうに訊ねてくる。 「なら、払った金の分はどうする。返すあてがあるのか?」 「俺が受け取ったわけじゃ……!」  叫んではみるが、義賊でもない限り金を払っておいてはいそうですかと放免する者もいないだろう。金さえあれば路上で凍えなくとも済む。翻ってみれば、払った側が相応のものを要求するのも当然のことだと、しおんには身にしみてわかっていた。あのあくどい団長が金を返すとも思えない。だったら一番自分にとって被害が少ないのは―― 「……ここの下働きとか」  こいつのために働くなんて胸くそ悪いが、そう言ってみる。が、龍郷はあっさりそれを却下した。 「ここで暮らすのも今は俺ひとりだからな。手は足りてる」  最も現実的だと思われる提案を無碍にされ、しおんは言葉に詰まった。そうなるともう、なにも持たない自分に支払えるものなどなにもない。  ――いや。  なくはない。あとひとつだけなら。  しおんは龍郷には見えない机の影で、ぎゅと拳を握った。 「……じゃあ〈そういう〉ので払う」 「そういう?」  龍郷は怪訝そうに眉を顰める。しおんは問いには答えず、ただ唇を噛んで押し黙った。そういうつもりがある奴になら、これで通じる。  しばらくして「なるほど」と呟いた声には、明らかに棘があった。 〈そういうこと〉で喜ぶ連中がいる。それは孤児院時代に知ったことだ。他の孤児たちの幼稚ないじめに鬱憤がたまっていたのは確かだが、最終的に肚を決めたのは神父に〈そういうこと〉を要求されたからだった。  見た目がこんな自分を子供も大人も腫れ物のような扱いをするくせに、どうやらその方面では価値があるらしい。むしろ、普通とちがう自分だからこそ、普通でない扱いをしていいと思うのかもしれない。  ――まあ、穴は誰にでもあいてるからな。  今なにかの代償に差し出せるとしたら、自分はそれしか持たない。  最後の手段だったのだが、不快そうな素振りを見せるということは、龍郷にはそういう趣味がないということだろう。金持ちには多いと聞いていたのだが、あてが外れただろうか。  気持ち悪いって追い出されるなら、それも好都合だけど。  半ば期待していると、それに反して龍郷は言った。相変わらず憤りを湛えた声のまま。 「なるほど、そういう生き方をしてきたわけか。――いいだろう。奉仕してみろ」  龍郷は戸口を離れてつかつかと書斎の中へと入ってくると、椅子にどっかりと腰かけた。不機嫌になったかと思えば一転して積極的な様子に戸惑う。 「あんたは、その、こういう……」 「こういう?」 「男とか、子供とか」 「ずっと英吉利にいたんでな。悪い遊びはそのころ覚えた。うっかり子供ができたりしないのも好都合だ」  いかにもお邸持ちの若様が考えそうなことではある。  じゃあなんでさっきはあんなに尖った声を出したんだ――考えていると「さっさとしろ」と急かされた。  最終手段で申し出てみたが、いざほんとうにするとなるとためらいがある。それでも怖じ気づいていると思われたくはなく、しおんは努めて平気なふりで絨毯に膝をついた。龍郷のベストの裾をのけ、前を寛げる。  下着の中から取り出したそこは、昂ぶっていないときでもすでに息を呑むほどの大きさだった。微かに舶来物の石鹸の匂いがするのが、神父に迫られたときよりましだろうか。  しおんは邪魔な髪を耳にかけると、目を閉じてそこを口に含んだ。  さっきまで石鹸の爽やかな香りしかしなかったのに、途端、汗のような体臭が襲ってくる。怯んでいるのを悟られまいと、さらに深くまで咥えこんだ。  必死で顎を前後させながらちらりとうかがうと、龍郷はしおんに下肢を明け渡したまま椅子の肘かけに頬杖をつき、机の上にあった書類を読んだりなどしていた。  な……ッ!  こっちは必死だというのに、まるで何事もなかったかのようなこの態度はなんなんだ。  動揺が伝わったのだろうか。龍郷はこちらをちらりと睥睨する。 「下手くそ」 「へ、下手……ッ!?」  冷たく言い放ったかと思うと、一転にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。煽るようなその顔が気に入らず、しおんはさらに龍郷のものを深く咥え込んで激しく前後させた。  本当は手管などなにひとつ知らないそれがうまくいくわけもなく、噎せ返ってしまう。 「ぐ……ッ、げほ、げ……ッ」  くそ。  無様だ。なんでこんな目に遭ってんだ、俺。  苦しさとふがいなさとで目尻にじわりと涙が浮かんでくる。げほげほと噎せ返っていると、不意に体が浮いた。 「え――?」  見上げればすぐ近くに龍郷の顔がある。またしても子供のように抱きかかえられていると気がついて、しおんは足をばたつかせた。 「おろせ……っ! ガキじゃない!」 「その割に下手くそだったがな」  こういう方法で支払うと告げたときには怒っているような様子だったのに、どういうわけか今の龍郷はとても楽しげだ。あがいてもあがいても所詮ろくに食事もしていないしおんの力では、腕の中から逃れることも出来ない。  為す術もないまま寝台の上に降ろされる。 「な、なにを……」  見上げるしおんに「なにを?」とくり返し、龍郷はネクタイを緩めた。 「こういうやり方で支払うと言ったのは、おまえのほうだぞ?」  黒い瞳に射貫かれる。ひどく心許ない気持ちになるのは、雲のようにふかふかした寝台のせいだけではなかった。       

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