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アパートの隣人3
◇
夕方の駅前は、帰宅を急ぐ人の群れで騒がしい。ぼくはその群れのひとりだけど、今から行くところを考えると、この群からはじき出されるんじゃ無いかと変な事を考えてしまう。
そう言った考えが、きっと偏見というものを生むのだと思う。社会学を専攻していると、世間には偏見の元がたくさんあることに気付く……いや、気づいているから、社会学を専攻したのかもしれない。
ともかく、ぼくは初めて、性的マイノリティの人が集まるお店に行くわけだけど、これも経験として良いものとなると信じたい。
「お待たせ」
人混みの中から、悠哉先輩がやって来て言った。先輩はぼくより少し背が低いことを知った。
「いえ、大丈夫です」
「そう?とっても退屈そうな顔をしていたけど」
「見てたんですか?」
「ちょっとね」
悪戯っ子のように、先輩はニコリと笑った。まるで歳上に見えないなと思った。
「行こっか」
「はい」
先輩が慣れた足取りで少し前を行くのに着いて、ぼくはだんだんと人気のなくなる道を歩いた。繁華街の喧騒を抜け、街の明かりよりもネオンの煌びやかさが目立つ路地へと入る。
昔見たアニメ映画で、野良猫についていく主人公という場面があったが、まさにその主人公はこんな気分だったのか、と考えた。ふと顔を上げると非日常が待っている。ワクワクよりも不安の方が大きい。
「着いたよ」
先輩が指を刺す先に、その『エリちゃん』はあった。
「本当に入って大丈夫なんですかね」
「平気だよ」
先輩はなんの躊躇いもなく、その古ぼけた木の扉を開く。カランカランと燻んだドアベルの音が響いた。
「いらっしゃ…あら、ユウちゃんじゃない!ダメよ、こんな掃き溜めみたいなところに来ちゃ」
そう言って迎えてくれたのは、カウンターの裏に立つふくよかな女性?だった。見た目だけをとれば、女性といっても遜色ない。人間、歳を取れば性別がよくわからない人もいる。
ただ、声だけはどうしようもない。酒に焼けた男の声だった。
「エリカちゃん、自分の店を掃き溜めなんて言っちゃダメだよ」
先輩は気さくに返事を返し、カウンター席へと腰を落ち着ける。
店内には他にも数人の客がいて、従業員も二人、接客についていた。
「先輩、お知り合いなんですか?」
戸惑うぼくに、先輩は言った。
「まあね。っても、来るのは初めてだけど」
「来ない方がいいのよ!!もう、アタシがキョウちゃんに怒られるじゃない」
「バレなければ大丈夫だよ」
ぼくにはよくわからない話を続ける二人。旧知の中のようだった。
「それより、なんで兄ちゃんがこの店のカード持ってんの?働いてんの?」
「あらヤダ、バレちゃった?」
「もしかして、兄ちゃんとうとうそっちの趣味に?」
「違うわよ!!アレはオカマの敵よ!!」
また、新しい人物が登場した。ぼくは場違いじゃなかろうか?
「アンタたちの叔父さん繋がりで、たまに手伝って貰ってるだけよ。あの子いつまでも働かないから、叔父さんも心配してるのよ」
「なるほどね…」
先輩が頷いて、それからぼくを手招きする。
誘われるままに先輩の隣に腰を落ち着けた。
「初めましてね」
「あ、はい。三宅智樹です。後輩で、隣人で…あの、」
自分でもよくわからないことを言っている自覚はある。でも、緊張してしまうのは仕方ない。
「フフッ、可愛いわね」
「食っちゃダメだよ、エリカちゃん」
「わかってるわよ!!」
と、そこでまた、ドアベルの音が鳴り響いた。
「いらっしゃ…あら、アンタまでどうしたのよ?働いてくれるのかしら?」
エリカさんがドアの方を嫌そうに見る。
「働きに来たわけじゃねぇよ。コイツに無理矢理連れてこられたんだよ!」
クソッ!と、悪態をつきながらぼくの右隣に座ったのは、隣人のマキだった。
「あ?なんで悠哉がいるんだ?」
「僕がユキさんを誘ったから」
空気が凍った気がした。マキがその右隣に座った、恐ろしいくらいのイケメン男性のスネを蹴り飛ばした。
「テメェいつのまに悠哉と連絡取り合ってんだよ?」
「イッテ!?別に関係ねぇだろ」
「チッ」
と、舌打ちを溢し、マキはさっと席を立って店を出た。それを、イケメン男性が追いかけていき、外でしばらく怒鳴り合う声が聞こえた。
「あの、先輩」
「なに?」
「大丈夫なんですか?」
「いつもの事だから」
「え?」
先輩が肩を竦める。エリカさんもため息を溢して、ぼくの前に黄金色の液体が入ったグラスを置く。ツンとする、キツいアルコールの匂いがした。
「ごめんね。あの二人はおバカだから、いつもああなのよ」
「おバカだから…?」
それで済ませていいのだろうか?
「ネタバラシするとね、智樹くんの隣人は僕の兄なんだ」
「マキさんが」
「僕も牧。牧悠哉っていうの」
なるほど。
「それでDVの事だけど」
「え?」
「ごめん、君たちの話、最初から聞いてたんだ。僕、すぐ後ろの席にいたから」
……なるほど。なんだか急に恥ずかしくなってくる。失言はなかっただろうか。
「あのね、勘違いしないでほしいんだけど、兄は別にDVを受けてるわけじゃなくて、自ら殴られに行ってるんだよ」
世の中には、不思議な趣味を持っている人がいるものだ。昨日マキが言っていたことは真実だったのだ。
杞憂だったとわかると、少し安心する。
「ということは、あの金髪の方が、マキさんの?」
「そう。それで、兄は別に彼氏の為に夜のお店で働いているわけではないよ。さっきもエリカちゃんが言ったように、手伝いだったみたいだし」
ということは、マキさんはオカマじゃないのか、と、なんだか少しホッとする。
「そうだったんですね……」
「もしかして、兄、夜中煩くない?」
「いや、ぼくはつい最近越して来たばっかりで」
「もしなんかあったら遠慮しないで僕に言ってね。懲らしめてあげるから」
ニコリとそんなことを言う先輩の目は、とても楽しそうだった。
そうこうしているうちに、マキとその彼氏が戻ってきた。
「エリカちゃん、ティッシュ」
「え?って、アンタたちやり過ぎよ!?」
エリカさんが慌てて箱ティッシュを投げ渡す。受け取った金髪の彼氏が、何枚かのティッシュを手に、マキの顔面を覆った。それが、見る見る真っ赤に染まっていく。
「いい歳して鼻血出すなんて、もう!何考えてんのよ」
「ちょっと強く殴りすぎた」
「殴っちゃダメなのよ、普通は!!」
新しいティッシュを取りながら、マキがぼくを見た。
「あれ?トモちゃんじゃん」
「……どうも」
今気付いたんだ。まあ、いいけども。
「さっそく来るとか、なかなかキモが座ってんな。普通オカマバーとか行こうと思わねぇだろ」
「僕が誘ったの。ついでにユキさんに連絡して、兄ちゃんも連れて来てってお願いしたんだ。みんなで飲む方が楽しいでしょ?」
先輩がそう言うと、マキは嫌な顔をした。鼻血はまだ止まらないようだ。
「俺は今コイツとケンカ中なんだ、さっさと帰りたい」
「マキ!まだ根に持ってんの?ホントしつこいよなお前」
「は?嫌だって言ってんのに無理矢理ちんこにブジー突っ込んだのはお前だろ!!」
「ヨガリ狂ってたクセに」
「死ね!!!!」
ぼくは耳を塞ぎたくなった。そのクセ、もっと聞いていたいような不思議な葛藤が生まれる。腐った脳を持つものとして、興味がないわけがない。リアルBLはどうかな、と思っていたけれど、マキとその彼氏があまりにもお似合いで(見た目だけなら)、彼等ならイケると思ってしまった。
「ちょっと!!店で羨ましい話しないでちょうだいよ!!お客さんみんなマキちゃんにおんなじことしたいって思っちゃうじゃない!!」
「んなわけねぇだろ!!」
そのやりとりに、店中の客がクスクスと笑っている。
「そういえば、昨日なんで外で寝てたのさ?」
先輩がグラスを傾けながら話を振った。
「ユキが全く反省せずに、今度はゼリーをちんこに入れようとしてきたから殴った。そしたら返り討ちにあって追い出された。俺の家なのに」
「ユキさん……」
先輩は呆れた顔でユキを見遣り、当事者であるユキは素知らぬ顔で言う。
「付き合ってんだからいいだろ別に。なんでもしていいって言ったのお前だし」
「なんでもっても限度があるだろーが!!」
また殴り合いが始まりそうだ。
そんな二人を他所に、先輩がポツリと「優しくしろって言ったのになぁ」と呟いた。
ともかく、ぼくは右側に獣二匹、左側にちょいちょい燃料投下して煽る先輩に挟まれて、数時間すごした。
いれてもらったグラスの酒を一口飲んでみたけど、とても味がわかるような状況ではなく、生きた心地もしなかった。
マキがベロベロに酔っ払い、じゃあ帰ろうかとなったのは、日付を少し跨いだ頃だった。
ユキの背中におぶられたマキが、何事か喚いているのを、少し後ろから先輩と眺めながら歩く。
「うちの兄ちゃん、おもしろいでしょ?」
「あー、はい、そうですね…」
とてもうんざりしましたとは言えない。
「アハハッ、トモちゃん正直だよね。ずっと顔に出てたよ?あーもう帰りたい。この人たち頭大丈夫か?って思ってたでしょ?」
「気付いてたんなら言ってくださいよ……」
ぼく、とても失礼な人だと思われてしまうじゃないか。
「そんなトモちゃんのつまらなそうな顔を見てるのが面白かったんだよ」
「先輩も大概ですよね」
「よく言われる」
余談だが、後でこの先輩が、とんでもない性癖をしているのを大学で耳にすることになる。ぼくはその時、この先輩には関わらない方がいいと思ったのだが、人生とはそううまくいかない。
途中、駅へ向かう道とアパートへ向かう道が分かれる丁字路があり、先輩はご機嫌に笑いながら帰っていった。
ぼくはひとりぼっちの気分で、マキとユキの少し後をとぼとぼと歩く。
アパートの部屋の前に来ると、あいさつもそこそこに部屋へ引き上げようとしたが、玄関を開けたところで、少し復活したマキに腕を掴まれてしまった。
「トモちゃん、ありがとな」
「何がですか?」
「色々だよ、色々」
首を傾げるぼくに、ユキが付け足すように言った。
「手当てしてくれてありがとう、怖がらずに店に来てくれてありがとう、弟と仲良くしてくれてありがとう、だ」
「おまっ、キモっ!なんでわかるんだよ?」
「そりゃマキのことならなんでもわかる」
「マジでキモいわ」
マキの反応からするに、それが彼の本心であるようだった。
正直うんざりしていたけれど、ぼくは少し、このマキとユキのことを好ましく思った。
世間一般からしたらズレた存在かもしれない。普通、恋人相手でも殴ったり殴られたり、無理矢理行為をするのは不道徳なことだ。
でも、短時間しか見ていないけれど、この二人はこれで、本当に愛し合っているのだとわかった。
「じゃあな、トモちゃん」
「あ、はい、また」
ヒラヒラと手を振り、マキが隣の部屋へと消える。その後を、ぴったりくっついていくユキ。
パタンとしまった扉の音に紛れ、玄関で暴れるような音が聞こえた。
創作でよくあるパターンだな、と冷静に思う。
しばらくすると、マキの少し上擦った声が聞こえてきた。
ぼくは玄関扉に耳を押し付けたい気持ちを抑えながら、そっと音を立てないように自分の部屋へ帰った。
今度あったら、玄関でするのは控えた方がいいと伝える必要があるな、と思った。
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