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取り引き1
☆
相沢から切羽詰まった声で着信がきたのは、夜21時頃だった。
オレは部屋でウロウロと歩き回り、帰ってこないマキにイライラしたり心配になったりと忙しかった。
その相沢の電話の内容に、オレの背筋はスッと凍った。あと、少し間を開けて込み上げてくる、ふつふつとした怒りをどうにか鎮めるのが大変だった。
「今から行くから」
それだけ伝えて電話を切った。幸い、部屋には幾らかの小銭があったし、それとスマホをデニムのポケットに突っ込んで、オレは部屋を走り出た。
落ち着かない気分のまま地元の駅に降り立ち、走って相沢のアパートへ向かう。
呼び鈴も鳴らさず、バタンと扉を開けて靴を脱ぎ捨て、部屋へ上がり込むと、オロオロする相沢と鉢合わせた。
「ユキ!早かったな」
「めちゃくちゃ走った。それよりマキは?」
尋ねると、相沢が寝室の扉を指差し、オレは急いでそこへ飛び込む。
シングルのベッドに寝かされたマキは、苦しそうな寝息を立ててそこにいた。顔色がとてつもなく悪い。額に手を当てると、まるで熱したヤカンみたいに熱かった。
布団から出た左手の人差し指と中指は、白い包帯でグルグル巻きにされている。覗く皮膚は赤黒い色に変色していた。
「マキ…」
柔らかい黒い髪を撫でながら呼ぶ。目蓋が震え、パチっと開いた。焦点が合う。それから、掠れた声が漏れる。
「ごめん…帰れなかった」
そんなこと気にしなくていいのに。
でも、思っていることが声にならない。
「なんでユキが泣くんだよ?」
言われて、自分が涙を流していることに初めて気付く。
「見張るって言ったのに…ごめん」
「フハッ!なんそれ?いいんだよ、別に。俺が悪いんだし。身から出たサビってやつ。クソはクソな目に遭っても仕方ないんだぜ」
強がりだ、と決めつけることはできない。マキの目には、どこか達観して受け入れてしまっているところがあった。
本当に自分が悪いと思っている。悪いのは、どう考えたってこんな目に合わせたヤツなのに。
「マキ」
堪らなくなって寄せた唇を、でも、マキは受け入れてくれなかった。
両腕をあげて、顔を覆ってしまう。
「やめろ。別に慰めて欲しいとか思ってないから。それより、はやく帰りたい」
そう言って身体を起こす。ツラそうな吐息を漏らし、なんとか立ち上がった。痛々しいほどふらついている。でも、手を貸す前にリビングへ行ってしまう。
「帰るのか?一時間くらいしか寝てないぜ?」
「大丈夫だよ。ありがとな」
「それはいいんだけど」
と、相沢が手渡したスウェットを着て、そのまま部屋を出て行こうとする。
「いいのか、アレ」
「よくない。でも帰りたいってきかない。マキはがんこだから」
オレはあいさつもそこそこに、マキの後を追った。
フラフラ歩くマキに、触れてもいいのか、やめたほうがいいのかわからなくて、結局家に着くまでただ隣を歩くのみだった。
部屋の電気をつけて、マキがいつもの場所に座る。タバコに火をつけ、ゆっくり吸い込んでから咽せた。
「ゲホッ、イッテェなチクショー」
そんなマキに向かい合って座り、意を決して聞いた。
「何があったんだ?」
「ジュンに嵌められた」
そう言って、自虐的な笑みを浮かべるマキが痛々しい。
オレは多分、感情をそのまま顔に出してしまっていたんだと思う。悲しみとか怒りとか、色々なものを我慢できないから。
「そんな顔するなよ。さっきも言ったけど、自業自得だから」
「自業自得で納得できるわけないだろ」
「俺は納得してる。お前がキレることじゃない。むしろ笑えよ。笑って、この話は終わりにして欲しい…じゃないと俺が惨めじゃん…お前がずっとそんな顔してんの見てられない」
そこで気付いた。
マキは平気なんかじゃない。オレに心配をかけないように、惨めな自分を隠しておきたいんだ。
そうわかってしまえば、オレの取るべき行動は簡単だ。
ヘラヘラ笑って誤魔化す弱い恋人に、オレはいつものように接するだけでいい。
「わかった。マキがそう言うなら、オレも納得してやる。それでお前の気がはれるなら」
いつものようにニヤリと笑って、オレはマキの顎を掴む。
「おいっ!?」
「慰めてなんかやらない。オレはオレがしたいからする」
逃げようとするマキの手を掴み、強引に唇を重ねる。
「ユキっ、ん、ふぁ…んん…」
本気で嫌そうだな、と思った。でもやめない。どんなマキでも、オレは手放さないから。たとえ嫌われても突き飛ばされたって放してやらない。
そうしろというのならオレはもう気にしない。この話はこれで終わり。
ただ、ジュンを殺したとしても、言わなければいい。バレなければいいんだから。
★
クリスマス当日。
下がらない熱と身体の怠さを抱え、俺はベッドで転がっていた。
全身が痛かった。耐えられない程ではないけど、心の方が耐えられそうになかった。
ユキは俺のわがままを聞いてくれた。
昨日の強引なキスからずっと、いつもの笑顔を浮かべ、いつもと変わらず接してくれる。
そうしろと言ったのは俺なのに、心臓が締め付けられるような痛みが発生している。
「なんか食べられそう?」
ユキがいつもの通りに聞いてくる。
「いらない」
「昨日の夜から何も食べてないだろ?」
ズキリと心の痛みが増した。昨日、帰ってから一応チキンとケーキを並べ、口に入れてはみた。でも、飲み込むと同時に吐いてしまって食べられなかった。
ユキは呆れた顔で後始末をしてくれた。俺はそれをベッドで横になったまま眺めていて、そのまま寝てしまった。
「なんか食べないと死ぬよ」
「そんなにすぐ死なないって」
「ただでさえヒョロイのに」
「うっせぇよ」
もう放っといて欲しい。こんなクソなんか構わないで欲しい。
わがままを言ったのは自分だ。なのに、ユキの優しさが重かった。
相変わらず折れた指が熱を持っていて、ものすごく痛いのに、その痛みよりもやっぱり心の痛みが大きい。
ユキを裏切った。
恋人がいるのに、他の人間に犯された。それを、拒むどころか完全に受け入れて、されるがままに、欲望のままに楽しんでしまった自分を許す事ができない。
黙っていればバレないと、冷静で冷徹な俺は言う。
でも動画として残っている。
そこには多分、ダラシない顔でおねだりしまくる自分が映っているはずだ。
気を抜くと涙が溢れ出してしまいそうだ。
悪いのは俺なのに。
呆れたような、心配なような、多少のイライラを含んだユキの顔を見ていることができなくて、枕に深く顔を埋めた時だった。
ピンポーンと、呼び鈴の音がした。
「チッ、誰だよ」
不機嫌を隠しもせず、ユキが玄関を開ける。
「はい」
「修哉、いるかしら?」
「誰だよ?」
「姉よ」
「へぁ?」
ユキの変な声が聞こえた。
「修哉、来なさい。恭哉が呼んでるわ。うちにおいしい……ゴホン。不適切な動画が送り付けらてきたそうよ」
今おいしいって言ったよな?俺の聞き間違いじゃなければ、だけど。
「アニキ…あの動画見たのか」
「そうじゃない?喜んでたから」
最低だ。どうせ俺が酷い目に遭って喜んでやがんだ。
あー、吐きそう。
「うっ、ゲホッ」
「マキ!!」
慌てたユキがベッドの横に座って背中をさすってくれる。えずくだけで何も出ない。何も食べてないのだから当然だ。
「あんた何も食べてないの?そもそも、一日に必要な成人男性のエネルギー量知ってるのかしら?成人というものが肉体の一定量の成長という意味ならばあんたの必要エネルギー量はどう見ても足りてないけど、成人が自立したという意味ならば、あんたはエネルギーを取る必要はないわね」
俺もユキも、いつの日かのように同時に首を傾げた。
もちろん俺はこの面倒な姉をわかっているからこそだが、ユキはポカンとした顔をしていた。
「ともかく、修哉のことが大好きなお兄ちゃんが呼んでるわよ…そのまえに、発熱をなんとかしなくちゃね」
ニコリと笑う姉は、実験動物を前に狂気的な笑みを浮かべるマッドサイエンティストの顔をしていた。
★
東堂(結婚して苗字が変わった)沙羅は牧家の二番目の権力者だった。
どこでもそうだが、女は男より強い。俺たち男は、沙羅にはなんとなく勝てない。
沙羅は黒いストレートロングの髪を乱雑にポニーテールにした(世間一般的に言うと)痩身の美人で、主婦であり総合病院勤務の現役外科医。
派手さはないが、金だけは持っている。
姉が、真っ黒のSUVを運転しながら言った。
「そういえば久しぶりね。相変わらず不健康そう」
「ねぇちゃんはいつでもロボットみたい」
「あんたはいつでもダッチワイフね」
「うるせえよ!!」
姉には言葉を選ぶという概念がないのだろうか、といつも思う。でも医者としてやっていけてる(二児の母でもある)から、人の心を持ち合わせてはいると思う。
向かっているのはねぇちゃんの働いている総合病院で、ユキにはお留守番してもらっている。別について来てもいいと姉は言ったが、俺が拒否した。
ユキの顔を見ていると、俺がどうしようもなくいたたまれない気持ちになるからだ。
総合病院の救急入口から入った後、空いている処置室に通されベッドに横になった。看護師が手渡して来た体温計を脇に挟み、電子音の後映し出された数字を見ると、8.9という、近年稀に見ぬ高熱だった。
戻ってきた姉がその数字を見て眉根を寄せ、有無を言わせぬ圧力で血を抜かれ、衣服を捲り上げて相沢が貼ってくれたガーゼを剥ぎ取ると、また眉根を寄せた。
「なんですぐに病院に行かなかったの?」
「保険証がありません」
「全額負担ね」
どうでもいい話だが、医療費の全額って、ハイブランドで値札の無い服買うときのドキドキに似てるよな。ほんとどうでもいいけど。
「血液検査の結果出るまで少し時間がかかるから、食べてない分の点滴処方しとくわ」
「ん」
姉はツンと冷めた顔で、あれやこれやと看護師に指示を出し、しばらくして戻って来た看護師が用意した新しいガーゼや消毒用の綿毛みたいなやつで、俺の熱を持った傷を手当てした。
「所構わずヤるからこうなるのよ」
「どういうことだよ?」
「傷が悪化してるの。発熱はそのせい。はい、腕出して」
言われた通り左腕を出し、姉が針を刺すのを見ていた。
「二時間ほど動かないで」
「はいはい」
その二時間、俺は処置室のベッドの上で眠った。
あの時の夢を見た。
俺は何本もの手にはがいじめにされ、最初は真剣に逃げようとしていたのに、だんだん自分から求めるようになる過程を、俯瞰で見つめていた。
どうして逆らわなかったのだろう。
どうして俺には、分別も何も無いのだろう。
ふと、俯瞰で見る俺の隣に人影があった。カメラを回していたジュンかと思った。
違った。ユキだ。
ユキは無表情で嬌声を上げて浅ましく快楽を求める俺を見て、しばらくしてスッと消えてしまった。
消えてしまったのなら、追いかけることもできない。
だから俺は、諦めた。
「終わったわよ」
その姉の声で、俺は目を開けた。
冷たい視線に見下ろされていた。夢の中のユキの視線に似ていた。
「指」
ねぇちゃんは俺の左手を(いつのまにかしっかり手当てされていた)見て言った。
「ピアノもヴァイオリンも、もう上手くできないかもね」
特に気遣う様子もなく、ただ事実として伝えた、といった感じだった。
「別にいい。もう辞めてるから。それにもともと上手くもない」
「そう」
俺は今まで色々なものを取りこぼしてきたけど。
こぼれたものが戻ってきたことはない。
「そろそろ迎えが来るわ」
「ん」
「お兄ちゃん、本当は心配してるの」
「へぇ」
家の名に傷がつかないように、だろ。
そう思ったけど、口にはしなかった。
姉は黙ったまま処置室を出て行った。入れ違いに、背の高い背広姿の短髪の男がやってきた。
兄の秘書をしている加藤という男で、実家にいた頃に何度も見かけたことがあった。
加藤は表情筋を押し殺したような無表情で、方や俺は、いつものようにヘラヘラ笑いながらあいさつを交わした。
促されるまま、頑丈で静かすぎる高級車に乗り込み、実家への短い道中を外を眺めて過ごした。
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