19 / 21
第19話 Side:F
「足手まといに、なりたくなかった」
ミューは喉の奥から絞り出すように、やっと一言吐き出した。ミューはそっと頭を倒して、僕にしがみついてきた。そうされると、どんな表情をしているのか分からなくなる。
「分かってるよ。お前が、俺のことを大切にしてくれてるってことくらい。でも、だからこそ……、俺は歩けないから、もうお前が好きになった近衛の隊長じゃないから、いつかきっと邪魔になる。それは今だって思った。俺のせいで、お前の立場を利用されるところなんて、見たくなかった。俺の存在が、お前にとっての弱みになんてなりたくなった。だから抜け出した」
続けられる言葉を静かに受け止める。確かに、大臣は歩けないミューを僕の弱みとして誘拐し、その命を盾に僕を利用し権力を手にしようとしていた。ミューが軍人だった頃は、そんなことはなかった。ミューはそれなりに戦える存在だったし、身内で手を出そうとする者はいなかった。だけど、歩けなくなったことにより、ミューは戦う力を失ってしまった。残ったのは、僕が目をかけているという視線だけ。それから守るためにも、部屋に閉じ込めたというのに。
「……それだけ?」
黙ってしまったミューに一言囁くと、ミューは苦しそうに息を吸った。それからもっと強く僕にすがってくる。
「……生きるのにしがみつくのは、もう潮時かなって思った。あの日から、ずっと生きていることに違和感があった。……生きているのか分からなかった。でも死にたいなんて考えたくなかった。助けられたんだから生きなきゃって、言い聞かせてた。なのに、ずっと苦しいんだよ……生きていたくないって言うんだよ……だから……」
ミューはその先を続けることはなかった。ミューが飛び出すのを後押しした理由。「死にたかった」。それが答えだ。きっと、これが一番大きな理由なのだろう。自殺行為だって分かっていながら、ミューが死のうとしたとはどうしても思いたくなかった。ミューがそんなことをするとは思えなかったから。
あの日の「ころして」という言葉が頭に過ぎる。「もう終わりにして」という願いが頭を埋めて行く。死にたいなんて思うような人じゃなかった。むしろ特別生きることを大切にする人だった。そんな人が死にたいと思ってしまった。そんな自己を正当化したのが「足手まといになりたくない」という思い。自分がここを出るのは死ぬためじゃない。僕の邪魔にならないため。その結果、ミューはこの箱庭を飛び出してしまった。
「……ごめん、ごめんな。自分でも分かんないだよ。なんでこんなに死にたくなるのか」
死にたいという思いが間違っていることを人一倍よく知っているミューが、それを強く思ってしまった。きっと何度も何度も思い悩んだろう。それを僕に話すことも出来なくて、一人で抱え込んだ。謝ることなんて、一つもない。僕はそれに気付けなかったのだから。
「なのに、」
ミューはふと顔をあげて僕に目を合わせる。深い群青色の瞳は涙で濡れていた。苦しいのだろうとすぐに分かる。僕をしっかり見つめたミューは悲しそうに笑った。
「いざ捕まったら、死ぬのが怖くなった」
壊れてしまいそうだなと、ふと思った。それが怖くて、声が出なくなる。
「たくさん手が伸びてきて、暴れたいのに体は動かなくて、ただ次が終わったら殺されるのか、ちゃんと満足させられなかったら殺されるのか、って、ただ死ぬのが怖かった。おかしいよな、死にたくて勝手に飛び出したのに、死にたくないって、思ったんだ。……死んだら、後悔することがあったから」
ミューは僕に顔を寄せて、そっと額と額を合わせた。小さな、ほんの微かな囁きが、耳に届く。
「好きだよ」
直後、目の前の体を強く抱き締めていた。どれだけ待ったのだろう。このたった一言を。ミューが近衛の頃からずっと伝えてきた感情。ミューは一度も頷いてはくれなかった。触れる時もミューはいつも命令を求めて、自分の気持ちで触れることを許すことはなかった。ミューはきっとその気持ちすら飲み込んでいた。言ってはいけないことだと思い込んで一人で抱えていた。
「知ってるよ……」
嫌いな相手にする反応ではないことくらい知っていた。ミューが同じように僕に好意持ってくれていることなんてこれだけ一緒にいたら分かる。それでも伝えられなかった一言。ミューはどれだけ抱え込んでいたのだろう。
「僕だって、好きだよ」
「うん、知ってる」
たった一言を伝えるのに、こんなにかかってしまった。ミューだってずっと言いたかったはずだ。擦り寄ってくる頭に顔を埋めると、ミューの香りがした。ふわふわした太陽の香り。くるくるふかふかした髪が気持ちいい。
「ミュー、僕の弱みはもうあるんだ。とある人のことを日に一回は抱きしめないとやる気が出ないし、その人が朝に元気がないと気になって仕事が身に入らない。他の誰かと楽しそうに話してると悔しいし、先に寝られちゃうと寂しい。部屋に戻ったときに姿が見えないと不安になる。たとえ布団に潜っているだけだって分かってても怖くなる」
「……ふぃ、ん」
「君はもうとっくに僕の弱みだよ」
ミューがそっと顔をあげて僕を見る。幼い子どものような無垢な瞳が僕を見つめていた。そうそう、ミューはこんな風にまだ子どもっぽいところがたくさんあって、……太陽の下を走り回るのが好きだった。休みの日でも竹刀を背中に持って兵士たちに付き纏われていたっけか。そんな大切な日常。本当なら特別扱いなんてするべきじゃなかったんだ。少しでも、日常に戻してあげるべきだった。
「僕には君が必要なんだ……だから、ね? 生きていたい、って言ってよ……」
「……遅いんだよ、バカ……」
ミューの言う通りだ。ミューは大切にされるよりも、必要とされたかったのに。大切であることばかり伝えて、必要としていることを伝えてこなかった。ミューの瞳が呆れたように笑う。瞬きをすると、また透明な滴が頬を伝っていった。
「生きたいよ……。あの頃みたいに、お前の隣にいたいよっ……お前に相応しい俺でいたかったよ……」
またお前と戦える? あの日目を覚ましたミューが最初に放った一言が思い出される。ミューにとって歩けなくなったことは自分の生き方を奪われたことと同じだった。近衛隊長だから、隣にいられた。でも、もうそこには戻れない。苦しそうな声を出したミューの目は、ただ真っ直ぐに僕を見ていた。
ともだちにシェアしよう!