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『何故だ・・何故・・助けてくれない!』
その時、墨字が流れる視界の中を何かが通り過ぎた。
それはごつごつとしていて石のように硬く、五本の指にも似たその独特な形状から手のひらだと分かった瞬間、全てを握りつぶすようにゆっくりと力を込め始めた。
伸ばされた腕は確かにその者を捕らえていて、迷う仕草は何処にも見られない。
耳をつんざくような雄叫びが鼓膜を破り、全身が溶かされた鉄のようにどろりとした液体へと姿を変えていく感覚だけがハッキリとその者の体に刻み込まれていく。
『・・・あ・・嗚呼・・たす・・助け・・た・・・・』
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
瞬く星が見下ろすその下で、どんよりと吹く風は何処か不穏な動きを見せており、それはやがて空へと伸びるように、ゆっくりとその姿を現したのである。
「 。」
まだ完全に乾いていない土の上で、そんなことを彼は言う。
すんと鼻を鳴らせば、そこには確かに人が生きていたのだろうという痕跡のみが残されていた。
五月も十九日を迎えた。
旧友に会いに行くと言った昂遠 に同行し、狼国 の外れに位置する周里 に足を踏み入れたのは、ちょうど二日前の話になる。
自分たちが住んでいる箕衡 から馬を借りて進む事一日半。周里 を覆う山の殆どは舗装されていない道が多いこともあって、宿で馬を預けて徒歩で移動する者が殆どだ。
かくゆう彼らもまた同じように宿に馬を預け、のんびりとした足取りで旅を楽しんでいる。
昂遠の服装はいつもの武僧姿とは違い、動きやすい上衣に身を包み、褲 の足首の部分を紐で巻き、頭には布を巻いている。
一方、後ろを歩く遠雷 は着慣れたいつもの袍を身に纏い、珍しそうに町の声に耳を傾けている。フラフラとおぼつかないその足取りを目にしながら昂遠は静かに首を振った。
「・・・・・・・・・」
どこから見ても旅人に見えないその服装で行くと聞いた時は、流石の昂遠も別の服にしろと散々忠告はしたのだが、彼が『いつもの服じゃないと一緒に行きたくない』と駄々を捏ねた為、しぶしぶその姿で行くことを許可したのだ。
どう見ても長い距離を歩くには似つかわしくない服装のはずなのに、長い袖を風に揺らしながら悠然と立つその姿は、どこから見ても貴族のようで。
娘たちが彼の姿を目に映す度に、どの娘もその美しさに頬を染めるが、肝心の彼はというと特に気にする様子もなく、前を歩く昂遠の後ろをゆっくりと歩いている。
結った彼の銀髪がはらりと揺れる度に艶が増し、襟や袖から覗くすべすべとした白い肌は柔く何処か淫猥な花を思わせる。
匂い立つ色気を隠そうともせず、飄々としていて全てが読みづらい。そんな彼の気配を直に感じながら、前を歩く昂遠の表情が先程よりも柔らかくなった。
「・・・最初はどうなるかと思ったが、無事についてよかった」
そう話す一方で、彼は昨夜、夜盗と一戦交えた日の事を思い出した。
箕衡 から周里 に行くには細い山道を通る必要があるのだが、木々が陽の光を遮っており、昼間でも薄暗く、旅人が追い剥ぎや夜盗に襲われ品を奪われる事件が多発している。
その隣に位置する苜州 からは芺 公が治める土地となり、通過するには通行用の手形が必要となってしまう為、商人を含む皆が何らかの警戒心を保ったまま山道を通るのだ。
それは昂遠達も例外ではなく、馬の方が速く行けるからと店に寄った際、商人に
「旦那ぁ、夜に行くんなんてさぁ。そりゃあ、やめた方が良いんでねぇですかねえ」
と、忠告されてしまった。
語尾に独特な口調が混ざる嶺州 訛りのその商人の声は大きく、いつの間にか他の店からも店主が寄ってきて店の周囲はたちまち賑やかになってきたではないか。
「せっかく買った馬ぁ、無駄になっちまいますぜぇ・・それに・・」
商人が眉間に皺を寄せたまま、遠雷に視線を向けている。
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