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「あいつの妻は飯が美味くて・・前なん・・・」
そう話す昂遠 の声が、急に遠くなった。
「・・・昂?」
「・・・・・・・・・・」
ざわりと吹く風に、昂遠が纏っていた空気に緊張感が走る。
その様子に遠雷 の瞼が僅かに揺れた。
「昂?どうし・・」
遠雷の声が終わるよりも先に、動いたのは昂遠の足であった。
急に走り出した兄の姿に一瞬、呆気にとられた遠雷だったが、急に一人にするのは危ないと慌てた様子でその背を追った。
「おいっ!昂!待てっ!」
遠雷の声に対して何の反応も返って来ない。先程とは打って変わり舗装されていないその道は動きづらく、ピシピシと木の枝が肌を掠めていく。
「おおっ!?」
緩やかであった道を走っていたはずが、急に足元がぐらりと揺らぎ、身体が傾いた。
「おいっ!聞こえていないのか・・くそっ!」
『俺は目がぼんやりとしか見えないんだぞ!』
体勢を立て直しながら何とかして坂を上ろうとするものの、昂遠の足が速すぎるせいか、なかなか彼の衣を掴むことが出来ない。
そんな自身にもどかしさを感じるも、今はそんな事をしている場合ではないと思い直し、もたつきながら走り続けた。
「・・はぁっ・・はぁっ・・・・」
数秒か、数分か。
昂遠の足が止まる音を耳にしながら、ぜいぜいはぁはぁと荒い息をそのままに遠雷が顎を伝う汗を袖で拭っている。ぼんやりと霞みがかかったような視界の中で、眼前に立つ昂遠の背はいつもより小さく見えた。
「・・・いった・・な・・が・・」
「・・どうした・・んん?」
土を踏んで初めて湿っている事に気付く。
ここ数日晴天が続いていた為、どこの土地も土の表面は乾いていた。けれども踏んだその土には僅かではあるが水分が残されている。
「・・・・・・・?」
腰を落として土に手を伸ばし触れてみるものの、小雨が降ったあとのような感触が直に伝わるだけで特に何も変わったところは見られない。
指を鼻に近づけ、匂いを嗅いでみても特に変わったところは見られなかった。
「・・・雨でも降ったのか・・?」
「え・・?」
「・・・・・・」
「遠雷?」
困惑が混ざった昂遠の声を背に、土に触れていた手を拭うことなく急に遠雷が立ち上がった。
衣が揺れる音に気付いたのだろう。昂遠がぼんやりとした声で遠雷の名を呼ぶが、彼の耳には届いておらず、これといった反応は返って来ない。
それどころか、急にずんずんと先を歩いたかと思えば立ち止まり、周囲を何度も振り返りながら、何かを探しているような態勢でウロウロと歩き続けている。
その奇妙ともいえる動きに、昂遠の眉間の皺が深くなった。
『なんだ?何が居る?』
はっきりと『これ』とは断言できない何かが、地を這うようにジッと自分たちが退くのを待っている。
『静かすぎる・・』
不気味なほどの静寂が周囲を覆う中、遠雷はうっすらと開けた瞼をそのままにゆっくりとその足を動かした。立っていた場所から十数歩進んでみると、涼しさの中にジメッとした水を含んだ重い風に変わっていく。途端に眉間の皺が濃くなった。
「・・・・・・?」
そこからまた更に進むと、今度は何かがつま先に触れ、その感触に『石にでも当たったか?』と首を傾げて後、鼻をスンと鳴らしながら左右を見渡した。
『ん・・?』
ザワザワと揺れる木の葉の音を感じながら、遠雷が再び鼻を動かしている。
何度も匂いを嗅ぐように鼻を鳴らしていたが、次第に首を傾げ始めた。
「この・・臭いは・・?」
これがいつもと変わらない日常であれば気にならなかったかもしれない。けれど、神経が過敏になっているせいもあるのか、遠雷の耳と鼻はより多くの匂いと音を感じ取ってしまっている。そのせいか、土と木々の匂いに隠れるように、様々なものが腐敗して濁ったような水の臭いがツンと鼻を突いたのだ。
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