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その日、彼は夢を見た。
懐かしい。とても懐かしい夢であった。
白い器に垂らした墨は水と交わり、やがて全てを薄く染める。
淡い。淡い夢であった。
ぼんやりと靄 がかかったような世界で、誰かが微笑んでいる。
その者の纏 う空気は澄んでいて、まるで陽の光のように温かい。
体格はやや痩せていて、指も細く骨が浮き出てしまっている。
伸ばしたままのその髪はすっかりと艶を失い、ところどころプツプツと切れてしまっていた。
お世辞にも健康的とは言えなかったが、その者はさして気にならないらしく、時折外を眺めては、また視線を寝台へと戻している。
だが、その背は何処か寂しく小さく見えた。
(・・ああ。懐かしい。俺の、俺の好きな・・・)
叭吟 は無意識にその者へと手を伸ばした。全ては無意識であった。
背後から抱きしめれば、ふわりと煎じた薬の香りがぷんと匂って来る。
(ああ。これだ。俺の、俺の好きな匂いだ)
甘えるように、すり寄ればクスリと笑う声が耳に届いて。
『君はいつも私に甘えてくれるね。叭吟 』
(懐かしい。この声だ。俺が一番好きな声だ。その声で名を呼ばれるだけで、本当に嬉しくて、嬉しくて)
『・・・君だけだ・・君だけが、私の側にいてくれる』
(ああ。そうだ。当然だ。だって、俺は・・貴方が、貴方の事が・・)
『君は、私の声やこの手が好きだと言ってくれる。でもね。私も君の長い髪や、綺麗な手。
それにその顔が好きだよ』
(ああ。知ってる。見えなくても分かる。貴方のその息づかいが全てを教えてくれる)
『・・あたたかい』
(嗚呼・・あたたかい・・・)
背後から伸びた叭吟 の指が、その者と交わり深く絡まれば、叭吟 の胸は歓喜で震え、細く白いその指が、彼の爪や手の甲を摩る度に胸が疼き、同時に幸福感で満たされていく。
(・・・ただ。こうしているだけで良かった・・やさしくてあたたかくて・・)
――― 幸せだと、心からそう思っていた。
あの日、通知が来るまでは ―――――・・・
『気は進まないけれど・・行って来るよ。叭吟 』
女性寄りの顔立ちをした青年は、叭吟 を前にして、やや困ったような笑顔を見せた。
彼の手には命令を告げる文がしっかりと握られている。
伝令の者が扉に立っていることを知った叭吟 が、その者を連れて向かった時、いつも絶えず纏 っていたその風がその日に限って、びりりと冷たく寒いものに思えてならなかった。
胸騒ぎが治まらない叭吟 とは対照的に、その者の声は始終落ち着きを保っていて、それが余計に彼を不安にさせたほどだ。
(ああ・・思い出したくない・・嫌な、嫌な記憶だ)
『・・俺は反対だ。ひと月もあんなワケが分からないような場所に行くなんてどうかしてる』
『・・命令は絶対なんだ・・抗う事なんて出来やしない』
優しく聞こえるはずのその者の声は困っていて、まるで駄々を捏ねている子どもに向かって話しかけているようであった。それが、余計に叭吟を不安にさせ、苛つかせていたのだ。
『・・・今だって外も満足に歩けやしないのに・・あんな場所に行ったりなんかしたら、今度こそ死んじまう・・!・・なあ!!』
膝を折った姿勢で縋 り、その顔を見上げた叭吟 の目が大きくなった。
『・・叭吟 』
今にも泣きそうな声が聞こえる。
掴んだその者の腰がぐらりと揺れ、下ろされた腕には力が入っておらず、フニャフニャと柔らかい。
『・・なあ。やめてくれよ・・俺が、俺が代わりに行って来る。俺は人間じゃない。利用価値だってきっとある・・だから!』
『・・ありがとう。でも、私は君がとても大切だ。だから、代わりになんて頼めない』
『・・・俺だって・・』
(俺だって、貴方が誰よりも大切で、)
『大丈夫。ひと月って長いようで、きっと短いよ・・だから』
話しているうちに喉が苦しくなってしまったのだろう。話す言葉に少しずつ空白が生まれ、やがて呻く声に変わっていく様を耳にして、叭吟 の喉が掴まれたように苦しくなった。
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