9 / 13

第9話

「おっ、来たね。“(ゆい)ちゃん”。」 「松田さん…今日もご苦労様です…僕なんかのために…」 送迎用の黒のSUVの後部座席に緋色(ひいろ)が乗り込むと 運転手の松田がルームミラー越しに車に乗り込んできた緋色を確認するや否や その狐目(きつねめ)を更に細くし、緋色に向け微笑みながら声をかける 「いいっていいって!コレも仕事だから…  それじゃあ――行くとしますか!“唯ちゃんの仕事場に”。」 「…よろしくお願いします。」 サイドブレーキを下ろしながら松田がそういうと 緋色を乗せた車はバスの合間を縫うようにして発進し… バスとタクシーと一般車両で渋滞になっているロータリーをノロノロと半周すると 車は信号機を左折し、そのままゆっくりとロータリーを後にする 「ところで唯ちゃん。」 「…松田さん…“お店以外”ではその…“唯ちゃん”呼び、やめません?」 「え~なんで~?可愛いじゃん。“唯ちゃん”。」 「いや…確かに“唯”って名前は可愛いですけど…」 「それに店長も言ってたでしょ?『ウチの仕事は演技が大切だ』って。  “唯”って役をこれから緋色君がお店で演じるにあたって…  役になりきるためにも仕事前から“唯”って呼ばれて  緋色君の気分を盛り上げる事も重要だと思うの。俺は。」 「はぁ…」 ―――逆に――盛り下がるんだけどな…僕は…    “ああ…これから唯になるんだ”って… 「ハァ~…」と…緋色はもう一度あからさまな深い溜息を吐きだす… その様子をルームミラー越しに目の当たりにした松田は 苦笑いを浮かべながら緋色に話しかける 「ところで唯ちゃん…さっき言いそびれたんだけど――」 「…?なんでしょう?」 「今日は――“あのお客さん”が唯ちゃんに予約を入れてた日なんだけど――  大丈夫?」 「あのお客さん…って……あっ、」 松田から“あのお客さん”と聞き―― 緋色の表情が少し曇る… 「まあ俺が心配したところで…  あのお客さんはもうすでに前金で支払い済みだから  どうにも出来ないんだけどさぁ…  でももし嫌なら――」 「大丈夫です。」 「…本当に?だって前あんな事が…」 「あんな事があったからこそ  あのお客さんは僕をアフターに連れ出すことをお店から禁止にされましたし…  それになによりお店からの警告もあってか  あのお客さんが店の外で僕を待ってたりするような事もなくなりましたから…  だからもう…大丈夫です。」 「…唯ちゃんがそー言うのなら…  それにしても――」 「?」 「いや…あのお客さんさぁ…  まるで藤社長と張り合ってるみたいに唯ちゃんにご執心じゃない?  なんかあるのかな~…って…  唯ちゃん藤社長からなんか聞いてない? 「…さぁ…僕は…何も…」 「そう…ま、なんにせよ、今日は荒れるぞぉ~…」 「え…なんで?」 「だってさ、唯ちゃん迎えに行くために俺が店を出る時に――  すっごい怒った感じの藤社長とすれ違ったもん。  これで荒れないワケないよ。」 「ええぇ…」 松田からそのことを聞き… 緋色はただでさえ今日は色んな事がありすぎて気が重いというのに… 更には“あのお客さん”の相手に怒った藤社長という嫌なワードのオンパレードに 緋色の気分は嫌な予感と一緒にますます沈み… 今はただ… 店では何も起きませんよーにと―― 緋色は心の中で祈るしかなかった…

ともだちにシェアしよう!