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第6話
朝の光の気配がして、柴田はゆっくりと目を開けた。カーテンの隙間から漏れた光が、丁度顔の上を横切っている。ぼんやりとそれを目でなぞって朝が来ていることを悟る。まだ朝になってから、そんなに時間は経っていない、考えながら首を動かして部屋の壁にかかっている時計を見やる。6時を少し過ぎていた。起きなければ、時間を確認しながら柴田は思った。もう少し早いかと思ったが、意外と時刻は出勤する時間に迫っている。昨日は逢坂がやってきたせいで、予定が狂って色々放り出して眠ってしまった。ちらりと視線を動かして隣を見ると、柴田のことを抱きしめるようにして逢坂がそこで意識を手放していた。乗せられた意識のない腕が重い。思いながらそれを退けて起き上がる。夜中に目を覚ますことはなかったから、しっかり睡眠だけはとることが出来たのだろうが、ぼんやりと体の芯に疲れが残っているような気がする。
「・・・ゆーしくん?」
不意に声がして振り返ると、まだ眠そうな目をして逢坂がベッドに転がったまま此方を見上げている。起こしてしまったのか、柴田はベッドから降りると、布団を元のように逢坂の体に掛け直した。その時ふと、昨日抱き上げられてここまで運ばれたことを思い出した。
「俺も起きるよ」
「いい、お前まだ大学行く時間じゃないだろ、ぎりぎりまで寝てろ」
「やだ、ご飯作る」
「いいって」
強情に柴田の制止を振り切って、あからさまに眠そうだったが、逢坂は体を起こすとベッドから降りて伸びをした。別にそんなことを気にする必要はないのに、と思いながら柴田は朝から逢坂とやり合う元気がなくて、口を噤んだ。眠そうな目のまま逢坂は柴田を見ると、いつものようににこっと笑って、柴田の手を引っ張って目尻にキスを落とした。ちゅ、とリップ音がしてすぐ離れる。
「おはよう、侑史くん」
「・・・おはよう」
それにどういう反応が正しいのか、柴田には分からない。
「眠そうな侑史くんは相変わらず朝からえろいなぁ。えっちしたくなっちゃう」
「・・・洒落にならないから離れろ」
良く覚えていなかったが、昨日もきっと逢坂は柴田の為に夕食を作ったのだろう。逢坂は柴田の家に来るといつも、何かと言っては新作の料理を作ってテーブルに並べる。昨日のそれは一体どうなったのだろう、無駄になってないといいのにと思いながら、逢坂に聞くのを忘れている。朝から熱いシャワーを浴びて、すっきりした柴田がリビングに戻ると、テーブルの上にはご飯とみそ汁が並んでいた。ちらりとキッチンを見やるとそこに逢坂はまだいて、何やらしているらしい。柴田はここに住んで3年目だが、キッチンなんて冷蔵庫に用事がある時か、カップ麺のためのお湯を沸かすことくらいでしか踏み入れない場所となっている。だからはじめは包丁も一本しかなかったし、鍋もひとつしかなかった。いつの間にか知らないうちに調理器具が増やされて、柴田の家なのに柴田はそこに何があるか全く分からない状態になっている。
「閑、先、食べていいのか?」
「あ、うん。食べててー」
まだ何か作業しているらしい逢坂には悪いとは思うが、柴田の方は余りゆっくりしている時間はない。椅子を引いてそこに座ると、両手を合わせるだけのポーズを忘れずに行い、その後逢坂がそれも用意したらしい箸を使って、白ご飯から手を付けた。多分、今頃炊き上がるように昨日の深夜、炊飯器の設定をしたのだろう。炊飯器など買ってからはじめの一度か二度くらいしか使ったことがない。今では柴田はそれの使い方も忘れてしまった。それより時間のない朝はパンでも焼いて食べたほうが早い。しかしやはり日本人なので、白くて温かいご飯を食べるとほっとする。柴田は食に頓着がなかったから、お腹が減った時に何かあって満たされれば割とそれでいいような節があった。昼間は職場の誰かと外で食べる機会が多かったが、朝と夜はひとりなら食べないか食べても簡単なもので済ませていた。だからあんまり太らないんですねと藤本に何故か怪訝そうな顔をされたことがあるのを思い出して、柴田は少しは頑張って気を付けて栄養を入れるように努力すれば、このコンプレックスの塊みたいなぺらぺらな体も、何とか見られるようになったりするのだろうかと思った。
「侑史くん、髪の毛濡れてるよ」
「あ」
乾かしてから出てきたと思ったけれど、まだ濡れていたのか。後ろからそう逢坂に指摘されて、振り返ろうと思ったところ、ふっと息が首筋にかかって、思ったより逢坂が近くにいることを悟る。また良からぬことを考えているに違いない、ゾッとした。振り返るのは止めにして、柴田はそれを無視して眼鏡のフレームを触って位置を直すと、ご飯を口にかき込んだ。
「うなじ白い・・・えろい・・・」
「煩いな、お前は朝から。終わったんなら座って食えよ」
「シャンプーの良い匂いする・・・えろい・・・」
「煩いって言ってるだろ!」
怒鳴った後振り返ると、そこで思ったより逢坂が頬を上気させてぎらついた目をしていたので、柴田は心底ゾッとして持っていた茶碗を投げつけるかと思った。朝から何をどう考えたらそんな思考になるのか、柴田には本当に理解できない。最早若さの暴走のせいにもできなくて、柴田は立ち上がって、今にもこちらに手を伸ばしそうな逢坂のTシャツの襟首を掴んだ。
「・・・いい加減にしろ・・・食え・・・!」
「分かってるよ・・・そんな怒らないで」
しゅんとして案外あっさりと逢坂は2、3歩足を後退させた。柴田の手が勝手に逢坂のTシャツから離れる。これさえなければもう少しマシな人間なのに、どうして逢坂は二言目にはそれなのだろうと、母親に怒られた子どもみたいに肩を落とす逢坂を見ながら、柴田は溜め息を吐いた。
「朝から疲れること言うな、全くお前は」
「ふぇろもん振り撒いてる侑史くんが悪いー」
「悪くない、フェロモンなんて出てない、食う」
「はーい」
渋々返事をして、ようやく逢坂は柴田の前の椅子を引いて座った。しかし逢坂は自分の分には手を付けずに、忙しそうに味噌汁を啜る柴田を、肘をついて眺めている。その表情は柔らかく笑んでいて、また良からぬことを考えているのではないかと柴田は背筋が寒い。
「・・・なんだよ、食えよ」
「うん、食べる。でも良かった、侑史くんがちゃんとご飯食べてくれて」
「あー・・・昨日の?ごめん、俺寝ちゃって」
「いいのいいの、半分くらい俺が悪いし」
「いいや100%お前が悪い」
「なにそれ、あぁ・・・でも昨日の侑史くんえろかった夢に見ちゃった・・・」
「そのスイッチもう入れんな。食え」
はーいと逢坂が間延びした返事をして、にこにこしながら箸を取ったのを見て、柴田はようやく安心した。時間はない、もうすぐ此処を出ていかなければいけない。
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