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第7話
ばたばたと忙しなく準備を済ませ、何とか思っている時間には出社できそうなことに、柴田は胸を撫で下ろしていた。本当ならばもう少し出社すべき時間に余裕はあるが、早めに行ってやっておきたいことがあった。睡眠時間を削ってこんなことを考えていると、本当に自分は仕事が好きで堪らないのだろうなと、柴田は改めて気付かされる。好きでなきゃこんなことはとてもできないだろう。好きだから大体の理不尽には目を瞑るし、自分の身を簡単に削ることができるのだ。逢坂はというと鼻を歌いながら、悠長に朝食の後片付けをしている。大学生の彼が何時頃から用事があるのか柴田は知らなかったが、おそらくはまだ余裕があるのだろう。なんだかんだ言っても学生は羨ましい、考えながら下唇を噛む。
「しず、俺もう出るから」
「あれ、今日早いね、もう行くの」
その背中に声をかけると、逢坂は振り返って水を止めた。手を拭きながらこちらにやって来る。柴田はそれから逃げるようにして廊下を進み、玄関で靴を履いた。いつの間に買ったのか、そして置いていったのか知らないが、柴田の家には見知らぬ調理器具が並んでいるみたいに、逢坂しか着けない紺色のエプロンがある。それで手を拭きながら、逢坂は少し残念そうな声を出す。
「あぁ、お前、部屋出る時ちゃんと鍵閉めといて」
「はーい」
「鍵は下のポストな、持って帰るなよ」
一度、部屋の鍵を閉めてから出ろと今日みたいに鍵を渡すと、そのまま逢坂に持って帰られたことがあった。スペアだったので良かったが、問い詰めると遂に合鍵くれたと思って、といい笑顔で言われて胸焼けをしたことがある。思い出しても背筋が寒い。こんな男が自由に自分の家に出入りできるような環境、恐ろしくてまさかみすみす自分から作ることなどできない。
「えー、ねぇいい加減合鍵ちょうだいよ、そしたら部屋の前で何時間も待たなくていいし」
「嫌だよ。あ、そうだ。もう部屋の前で待ってるな、怖いから」
「だから合鍵・・・」
「なんでそうなる。行くから、ちゃんと戸締りしろよ」
「じゃあ、いってきますのちゅーして」
後一歩で外に出られるというのに、逢坂が柴田の左手を掴んで足が止まる。面倒臭いことになった。柴田は下を向いたまま舌打ちした。
「だからなんでそうなる」
「ちゅーしてよ、それか合鍵ちょうだい、侑史くんのばか」
「しない、やらない。俺は馬鹿じゃない」
「もういい!」
ぐいと強く左手を引かれ、ぐるりと体が反転させられる。相変わらず、力では逢坂にはまるで敵わない。よろけた体が倒れないように足を踏ん張って止めると、両肩をぐっと掴まれてそのまま唇が塞がれた。もう半分以上面倒臭いだけの柴田は、目を開けたままぼんやりと逢坂が離れてくれるのを待っていた。それがいけなかったのか、ただ触れて離れるものだと思っていたのが甘かったのか、柴田の唇を割って、逢坂がそこから侵入してきた。慌てて後退しようとしても、両肩を掴む力が強くてびくともしない。逢坂の舌はそんな柴田を嘲笑うように、柴田の舌を絡めて卑猥な水音をさせている。
「ふっ・・・ァ・・・っ」
散々柴田の口内を犯して満足したのか、逢坂が離れると、つうっと自分の唇から糸が引いているのが分かった。逢坂がそれをぺろりと舐める。じんと奥のほうの神経が痺れた。朝から面倒臭いことになってしまった。こういうことにならないように気を付けていたつもりだったのに。柴田は逢坂の腕を掴んで、俯いて乱れた息を整えていた。今自分がどんな顔をしているのか、何となく想像がつくから顔を上げることが出来ない。ずれた眼鏡のフレームを俯いたまま触って直す。
「・・・おま、え・・・さいあく」
「ほんとだ、最悪だ・・・」
はぁと逢坂が大袈裟に溜め息を吐いたのが、俯いている柴田にも聞こえた。何故同意見なのか、柴田には分からない、顔をそっと上げると、逢坂はそこで先程溜め息を吐いていたとは思えないほど、清々しいくらいいい笑顔をしていた。ますます意味が分からない。
「侑史くんこれから仕事なのに、やりたくなっちゃった、どうしよ」
「・・・行ってきます・・・」
これ以上話していると本当に部屋に連れ戻されかねないと思って、柴田は青くなって逢坂の腕を慌てて放した。真意などこの際どうでもいいから兎に角、この部屋から出たほうが良い。自分でお金を払って借りているはずのそこが、柴田にとって時々どうしようもなく気持ちの休まらない場所になっている。柴田はそれにこめかみが痛んだような気がしたが、知らないふりをした。逢坂は口ではそんなことを言いながら、一方では酷く満足したようににこにこ笑って手を振っているのだから余計に始末が悪い。
「ねー、今日早く帰る?遅い?」
「遅い、お前も自分の家に帰れよ、じゃあな」
今日もまさか部屋の前で待っているなんて恐ろしいことをするなよという意味を込めて、呆けた顔をした逢坂にそれが伝わっているのかどうか微妙なところだったが、最後に一応そう釘を刺しておく。柴田はようやくドアを開けて部屋を脱出した。これでやっと逃れられた、昨日の夜からのことが酷く長かったように感じられる。取り敢えずあの姿見は玄関ではなくどこか違うところに置いたほうが良い。若干トラウマになりながら、柴田は今日家に帰ったらまずあれを移動させることを決意した。柴田は自由を噛み締めて、無意味に走り出したくなった。すると閉めたはずの扉が柴田の背後で開く気配がする。
「待ってー、侑史くん次いつ来てもいいー?俺いっぱいえっちしたいから金曜日か土曜日が良いなー」
「で、出てくるな!煩い!近所に聞こえる!」
慌てて振り返って、サンダルで外に出て来ようとしている逢坂の姿が目に留まる。来た道を走って戻り、出て来ようとする逢坂の体をぐいぐい押して、部屋の中に戻そうとした。そんなあからさまに近所に聞かれたらまずいことを堂々と朝から大声で喚くなんて、とても正気とは思えない。しかし逢坂はそんな柴田の気苦労など何処吹く風で、柴田が戻ってきたのが嬉しいのか、笑顔になって柴田のことを抱き締める。がっちりホールドされると柴田はそこから自身の体を抜くことが出来ない。
「侑史くんの方が煩いよ」
「無駄に良い声で囁くな、離せ!」
「んー、どうしよっかなぁ・・・」
時間が、逢坂に力任せに抱き締められながら柴田が考えていたことはそのことだった。逢坂の声は酷く悠長に聞こえて、時間の正常な感覚を狂わせる、考えながら柴田は腕だけを動かして、腕時計で時間を再度確認する。まだ少し余裕はある、柴田がほっとしていると、体をぎゅうぎゅう締め付けていた腕の力が急に弱まる。不意に解放されて、また何か企んでいるのかと腕でガードをしながら柴田が顔を上げて逢坂を見ると、逢坂はそこでいつものようにお気楽に無邪気に笑っていた。
「いってらっしゃい」
そしてそんな普通のことを言うので、柴田はすっかり拍子抜けしてしまった。
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