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第8話

車を飛ばして職場に着くと、柴田は心底ほっとした。ここにも悩みの種は勿論山ほどあるが、取り敢えず逢坂はいない、それだけでも今は十分だと思えた。まだひとの気配がなくしんとした1階のエレベーターホールでエレベーターを待っていると、足音がして背筋が跳ねた。何でもないことは頭の片隅では分かっていたが、その時はそんな冷静な部分吹っ飛んでしまっていた。慌てて振り返る、振り返った先に、日高が酷く吃驚した顔をして立っていた。多分今、凄く恐ろしい形相をしていたに違いないと思って、柴田はひとりで反省した。日高の方は朝から柴田が酷く怒っていると勘違いしたのだろう、ぶるぶると開けた唇が震えている。それを見ながら柴田は申し訳なさでいっぱいになる。日高に全く非はないのだ。 「し、しばたさ・・・」 「ごめん、日高。考え事してて。おはよう」 「・・・お、はようございます・・・」 律儀に頭を下げて挨拶をする日高の癖のある髪の毛をぼんやり見ながら、柴田は仕事するモードに頭を切り替えなければならないと後頭部をぽんぽんと叩いた。それにしてもこんな早くから日高が来ているとは知らなかった、まだてっきり誰も出勤していないと思っていた。だからあんなに驚いて振り返ることになった、考えながら柴田は隣に立つ日高の方をちらりと見やる。 「日高、お前朝早いんだな」 「あ・・・はい。今そのくらいしか・・・できないんで」 「・・・ふーん」 そう日高が言った意味が、なんとなく柴田には理解できなかったが、分かったふりをして相槌を打っておく。柴田は昔から要領が良かったし、何をやっても大体平均点以上にはできた。誰かに手酷く怒られた記憶もほとんどない。だからそう言って俯く日高のことを想像は出来ても理解することは出来ない。そうこうしているうちにエレベーターが1階について、ふたりして乗り込んだ。密室にいると分かる。最近時々、日高は優しい花の匂いがする。柴田はその匂いの正体を知っている。 (・・・真中さんの香水の匂い・・・今日も) ちらりと隣に立つ日高を見やる。柴田と話す時、緊張しているみたいに顔を強張らせることはあるけれど、日高の目元はいつも白い。今日も白かった。けれど真中と話す時だけ、日高は見て分かるほどそこを赤く染めて、ひどい呼吸困難みたいになって俯くのだ。それを真中が優しい眼差しで見ているのも知っている。柴田はそんな目で見て分かることも、分からないことも皆知っている。そんな風に物分かりの良い大人ではいたくなかった。察する力なんて空しくなるばかりで嫌だった。 (きっと大事に、大事にされてるんだろうな) ぼんやりと日高の落ち着かない横顔を見ながら、柴田は幾ら空しくても考えずにはいられない。あの大きい手のひらで撫でられて、日高はそれこそ顔を真っ赤にして俯くのだろう、そしてそれを真中は優しい目をして見ている。目に浮かぶようだった。考えながら柴田は日高には悟られないように、小さく溜め息を吐いた。そういう優しい目や手のひらのことを、柴田は知っているような気がした。欲しかったけれど自分には手の届かなかったその正体のことを、柴田は何故か鮮明に知っているような気がしていた。 (真中さんって、どんなセックスするんだろう) 日高の白くて若くてキメの整った肌、頬から喉に降りて鎖骨から先は見えない。今日も大学生みたいなカラフルな服装をしている。あれを一枚一枚、きっと丁寧に真中は脱がせるに違いない。広いベッドの上で、優しい言葉を沢山使って、泣きそうな日高に沢山キスをして。 「・・・柴田さん」 「え、あ」 急に声をかけられて、柴田は焦った。目の前で日高が振り向いて此方を見ている。考えていたことを口にでも出したのだろうか、慌てて口を手で覆う。あからさまに動揺する柴田のことを、日高の大きくて茶色い目が不思議そうに眺めている。 「着きました、降りないんですか?」 「・・・ご、ごめん、降りる・・・」 良からぬことを考えている間に、エレベーターは事務所があるフロアに到着していた。不思議そうな顔をした日高にそう指摘されて、ふたりしてエレベーターを降りる。柴田の周りから微かな香水の匂いは消えた。少しだけ、柴田はそれに安堵した。それにしてもいい加減、頭を切り替えないといけない、考えながらまたぼんやりと目の前を歩く日高のことを見つめていた。 真中のことを幾ら思っていても届かないことは分かっていた。柴田が真中のことを思い始めた時、既に真中の傍には氷川了以がいたからだ。真中がどんなに心を砕いて心血を注いでも、氷川了以が真中のものにならないことは分かっていた。だから柴田は安心して、この叶わない憧れとも恋心とも言えぬ、中途半端な気持ちを育て続けることが出来た。真中がそうやって永遠に叶わぬ片思いをしている間は、自分の思いも叶わないが、真中のそれもどうにもならなくて、その不毛さが柴田にはどうしようもなく心地よかった。だけど真中は急にこの不出来な新人を可愛がりはじめて、柴田の中の均衡は音を立てて崩れた。時々すれ違う日高の体から、真中と同じ香水の匂いがするみたいなことで、こんなに胸が痛くてどうしようもないなんて、そんな風に真中のことを思っていたなんて、こんな不安定な自分のことなんて、本当は知りたくなかった。 (仕事、しよう) 忙しい間は良かった。他に考えることがなくて済んだから。最近無茶なスケジュールの組み方をして、明日になってから家に戻って眠るだけの生活をしているのも、半分以上自分で仕組んだことだった。仕事をしている間だけは、他の煩雑なことは忘れることが出来たし、真中とも対等に話すことが出来た。何もない空白の時間ができることが、柴田は酷く不安だった。良くない考えは、良くない現実に繋がっているみたいに、悪いこと全てが日の元に晒されて、柴田はそれを受け入れなければならない日が来るのを知っていながら、何となくそれを先延ばしにして安全を確保しているつもりで満足しているのだ。賢い自分はそれすら本当の意味で理解しているけれど、やっぱり知らないふりをして、日高の匂いも真中の優しい眼差しの正体も、何もかも知らないふりをして、目の前を過ぎる仕事に没頭しているふりをする。いつまでこんなことで自分を騙せるのか分からないが、今はまだ何も知りたくない。全てを受け入れるだけの覚悟がないのだ。 「柴」 振り返った先に真中が立っていた。随分タイミングが良い。日高と時間をずらしたいなら、もう少し駐車場で待っているべきだ。考えながら柴田は、表情筋を意図的に緩める。 「おはようございます、真中さん」 「おはよう、どうしたの、早いね、お前」 「真中さんが俺に変なこと任すから、時間が足りなくてこのざまですよ」 「変なことって。了以のあれだろ?今どうなってんの」 笑いながら真中が言う、何だかんだ言ってもやはり氷川のことは気になるのだと思った。それか少しは自分のことも心配してくれているのだろうか、じくりと心臓の裏が痛む。 真中のことが好きだった。その優しい目で見られたかった、大きな手のひらで撫でられたかった。しかし器用な柴田は仕事で成果を上げて信頼こそされても、真中の一番大事な人にはなれなかった。真中が日高を選んだのが良い証拠だ。この先どんなに思っても、決して報われないのだろうと柴田は思う。それでもまだどこかで希望を持って見てしまうのだ、その人はいつも優しいから―――。

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