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第9話

「柴さん、所長がどっか行っちゃったんですけど」 お昼を少し過ぎたところ、所員の徳井が珍しく困った顔をして柴田のデスクまでやって来た。困ったことがあるとこうして所員がやって来て自分に何かと漏らすことが多いのを、柴田は自覚していた。真中がそれを見越して後は頼むと言わんばかりに、時々ふらっと誰にも言わずに事務所を抜け出しているのも知っていた。またそれか、と思いながら柴田は眉間に皺が寄りそうになったのを、意図的に堪えて徳井には同じように困ったような顔に見えるようにした。徳井に非はないのである。 「なに、俺で良かったらチェックするから持ってきて」 「すいません、堂嶋さんに頼むべきなんでしょうけど、なんか新しいプロジェクトであのひと参ってるみたいで」 そういえば徳井は堂嶋の班だった、聞きながら柴田は思い出していた。徳井も割と器用に何でもこなすタイプなので、堂嶋と話していても余り名前が挙がって来ない。本来ならば徳井の言うとおり、リーダーである堂嶋が処理することなのだろう。ちらりと堂嶋のデスクを見やるとそこに姿はなかった。今日は柴田が内勤で、堂嶋は確か現場に出向いているはずである。 「あぁ、そう。あれちょっと難航してるんだよな。氷川さんが結局噛むことになって」 「え、あ。そうだ、柴さんもメンバーなんですよね。あ、じゃあこんなこと頼むのまずいですよね」 「別にいいよ、俺で良ければの話だけど」 やることは山ほどあったが、柴田は笑ってそれに応えた。徳井は持っていた資料を柴田に渡しかけて、寸前でまた迷ったように止めた。 「柴さん、最近疲れてます?」 「なんで、まぁ、仕事は立て込んでるけど」 「クマ、また酷くなってますよ」 言いながら結局、徳井はそれを柴田に渡した。いつからだったのか覚えていないが、柴田の目の下にはクマがあり、最近はそれが濃くなる一方だった。女の子みたいに化粧で何とも誤魔化せない分、柴田の人相をどんどん悪くさせる原因になっていた。昔からクマはあったように思うが、それが自身の体調のバロメーターみたいになっているのはいつ頃からなのだろう、と柴田は考える。少し休んだほうが良いのは分かっている、分かっているけれど今は空白の時間は出来るだけ作りたくなかった。 「今回のが落ち着いたら、ちょっと暇でも貰うわ」 「柴さんに休まれたら、きっと皆困るんでしょうけどね」 肩を竦めて徳井が笑ってから、お願いしますと頭を下げて、柴田のデスクから離れていった。真中がいつからだったかメンバーの一番上に柴田の名前を書くようになって、こうやって所員に本気かお世辞か分からないことを囁かれるようになって久しい。ずっとそれを目指して柴田だってやってきた。真中に認めてもらいたくて、ただがむしゃらになってやってきた。けれどそうやってひとつひとつ信頼とか信用とかを握らされる代わりに、真中からどんどん離れて行ってしまっているのを、柴田は何となく自覚している。柴はもういいから、ひとりでできるから、何度そう言われてもそれが欲しい答えではなかったので、柴田は喜ぶことも笑うことも出来ずに曖昧に頷いている。やってきた結果がこれだなんて、あんまりだ。あんまりだと柴田は思った。 事務所の扉を開けて外に出るとエレベーターホールがある。その左側にトイレがあり、右に行くとベランダに出られる。事務所内は禁煙なので、喫煙者はそこで煙草を吸っていることが多い。大体そこには喫煙者しか寄り付かないので、集まる面子は決まっている。煙草の価格が上がり、街中で吸えるところが減ってきている昨今、段々と喫煙者も数を減らしているが、柴田は何とか耐えているうちのひとりだった。そもそも煙草は一日に一本吸うか吸わないかくらいの頻度でしかない柴田は、他の喫煙者と自分を一緒にしてはいけないことを分かっているし、一方では柴田の方も一日ひと箱吸うような連中とは一緒にはされたくないと思っている。 「真中さん」 黒い背中が振り返って、柴田を見つけて笑う。真中の社会人にしてはやや長い髪が、風に煽られてふわっと形を変えた。徳井が先ほど所長がいないと言っていたが、こんなところに隠れていたのか。真中は一応ポーズのつもりなのか、火の点いていない煙草をくわえていた。誰にもらったのか、それとも自分で買ったのか分からなかったが、真中は暫く前に禁煙すると言ってそれきり吸っていないはずだった。それを見ながら柴田は自分がまた無意識に険しい顔をしているのが分かった。 「こんなところにいたんですか。探しましたよ」 「おう、柴」 「おうじゃないですよ、仕事戻ってください、皆困ってます」 言いながら柴田はジャケットのポケットから煙草のボックスを出して、一本引き抜いた。真中がそれを何でもないように目で追っているのが分かった。火を貸してくれと言われたら断るべきなのか、それとも貸しても構わないのか、柴田は考えていた。 「あー。はいはい、分かってるよ」 「・・・―――」 分かっていない、本当は何にも分かってなんかいないくせに。思いながら柴田はそれだけは口に出せない。余計なことをこれ以上言わないように、言ってしまわないように煙草を口に挟んで火をつける。メンソールの匂いがふわっと鼻を刺激していく。 「なぁ、柴」 「何ですか」 「了以、元気だった?お前会ったんだっけ」 「会いました、先週。お元気そうでしたよ、変わらず」 何のことかと思えば氷川了以のことで。真中が氷川の名前を呟いている間は、自分は安心していてもいいのだと無意識に思う。真中が執拗に心配を繰り返している氷川了以の名前のその人は、雑誌の表紙を今でも飾ったりするくらいただ単純に美しくて、それが彼のデザイナーとしての人生を煌びやかなものにしている。昔はもっと棘の多い人で、紙面の中で幾ら優しく笑っていてもどこかぎすぎすしているように見えた。そういう人間的な余計なものが削げ落ちた今の氷川を丸くなったと真中は言うけれど、柴田はもっと一層、氷川は人間らしくなくなったと思っていた。そういう己の汚い感情みたいなものが、若い頃の氷川の笑顔の陰にはあって、良くない噂もあからさまなゴシップもあって、カリスマも人間でしかないと思っていたが、そんなものを一切感じさせなくなった今、氷川は一体何処を目指して走っているのか、傍目から見ているとよく分からなくなる。 「そんなに心配なら、真中さんがやれば良かったんですよ、いつも通り」 「そうだな、俺もそう思う。お前に任すって決めたのに、何か中途半端、いつも」 ふうと真中が溜め息を零すみたいに弱音を吐いて、柴田は心臓がどきりと跳ねた。慌てて知らぬふりをして、落としかけた煙草をくわえ直す。 「ごめん、もう聞かない。今度俺が聞いたらもう答えないでくれ、頼む」 「・・・なんで」 余計なことを言ってしまいそうになる、いつも。呟いた柴田の唇からぽろりと煙草が零れて、アスファルトに落下する。そんな風に単純に簡単に、誰かのことを大事にしようとする真中のことなんて知りたくなかったし、そのせいでこんなに焦燥する日が来るなんて知りたくなかった、本当は。

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