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第10話
「柴、煙草落ちたぞ」
真中が呆けた顔でどうでもいいことを言う。
「別に真中さんが氷川さんのことを心配することを、今更誰も何にも言いませんよ。なんでそんな、急に突き放したみたいに」
「えー・・・」
あからさまに困った顔をして、真中は後頭部を叩いた。これでは自分が真中に氷川を心配してほしいみたいだと思いながら、柴田は言葉を止めることが出来ない。言葉を止めていたはずの煙草は、アスファルトに落下してまだ少しだけ火を残して燻っている。
「いや、もういいんだ。自分で決めたことだから、俺はもう了以から卒業する」
「・・・卒業って」
「ごめん柴、変なこと言って」
真中が不意に柔らかく笑って、またどきりと心臓が跳ねた。卒業なんて曖昧な言葉で片付けられるほど、真中と氷川の関係は単純ではなかったはずだ。奥歯を噛む。きっと日高はそれに何も言えないから、言うことなんてきっとできないから、これは本当に真中の言うとおり、真中の独断に違いない。そうやっていつも正しい方法を探って、分かりやすく大事なものを大事にすることが、日高との間では大切なことなのだと、言われなくても理解できる自分の鋭さには吐き気すらする。柴田のぎすぎす尖り続ける神経を宥めてくれていたメンソールの匂いは消えうせ、ふわっと優しい花の香りがして、柴田は不意にそれに泣きそうになった。今朝エレベーターで乗り合わせた日高から香ったものと、やっぱりそれは同じ匂いだった。
「俺は駄目だなぁ、何でこんなに駄目なんだろう。カッコ悪くて自分でも嫌になるわ」
優しい顔のまま真中は眉尻を下げて笑って、そんなことないと柴田は瞬時に否定してしまいそうになった。真中はいつだって柴田の憧れだったし、どんなに適当なことを言っても適当な振る舞いをしても、最終的にはそんなこと問題にならないくらい、ならないくらい―――。その先を考えるのを放棄して、柴田はただそこで優しく笑う真中のことを見ていた。こんなに近くにいても、ふたりでいても、どんどん遠くなってしまう真中のことを、その時だけは側に感じていた。
「ごめんな、柴。俺、柴にはいつも甘えてばっかだなぁ」
「そんな・・・」
「柴にはかっこ悪いとこ一杯見られてるから今更取り繕わなくても楽っていうか、なんかごめん。俺、柴からも卒業したほうが良いかも」
「・・・―――」
何にも言えなくなって、柴田はそう言って笑う真中の横顔を見ていた。ふっと体の力を抜くと、その背中を抱きしめてしまいそうで怖かった、そんなことを考えてしまう、今更まだ考えてしまう自分のことが、本当は一番怖かった。すっと意識して息を吸って、何か言わなければならないと思ったけれど、ふさわしい言葉が何も浮かんでこなくて柴田はまた鼻の奥がつんとするのをただ感じていた。何でも良かった、いつもみたいに真中のことを馬鹿にしたら、真中はきっと笑うから、それが真中の大切な人に向けられたみたいな愛しい目線でなくても、柴田はそれで十分だったから、何か言わなければいけない、沈黙が一番いけない、思ったけれどどうすることも出来なくて、足元でまだタバコの火は燻っている。もう何も柴田を癒してくれるものも宥めてくれるものもなくても、それでも気丈なふりして立っていなければならないなんてあんまりだ。
「なんつー顔してんの、お前」
「・・・―――」
真中の目がいつの間にかこちらを見ているのと目が合う。無言で瞬きだけを返すと、ふっと真中はその表情を真剣なものに摩り替えて、柴田の方に手を伸ばしてきた。大きい手のひら、優しい手のひら、あれが癖のある髪の毛を撫でているところを、柴田は何度見ているのだろう、これから何度見なければいけないのだろう。ふっと軌道がそれて、真中のそれが柴田の肩をぽんぽんと叩いて、泣きそうになるほど安心した。真中のそれが決して自分の頭をあの子みたいに触らないことが、何故かその時柴田のことを安心させた。
「顔色、悪いぞ。今日は早く帰れよ」
「・・・そんなこと言って。あなたが任せた仕事でしょうが」
「そんなに根詰めてやるな。柴なら大丈夫だから」
そんなことを言って欲しいわけではなかったのに、そんなことを言われるために今までこんな風に努力したわけではなかったのに。考えて俯き、また何も言えなくなる柴田を見ながら、真中は唇に挟んだままで火のついていない煙草を柴田の手に握らせた。ふっと柴田が顔を上げる。
「やる、それ吸って午後からも元気出して働け」
「・・・真中さん」
「で、今日は定時に帰れ。所長命令」
「・・・―――」
ふっと真中が子どもみたいに笑って、すっと柴田から離れてベランダからフロアに入って行った。その広くて黒い背中をぼんやり柴田は目で追う。真中は柴田のことを心配したりはしない。1日に何度も思い出したように、氷川の名前を口にするくせに、それなのに真中は柴田のことは心配しない。幾ら目の下が黒くなって取れなくなって、ぎすぎすした体が栄養を受け付けなくて骨ばっかりになっても、柴田はそれをコントロールできるから、氷川みたいにどうにもならなくなって倒れたりしないから、そしてそのことを真中は知っているから。知っているからいつもはそんなことを言わない、その真中がそう言うのだから、きっと自分は酷い顔を、真中にそう言わせてしまうほど酷い顔をして、体の芯から疲れ切っているのだろうと思った。
(・・・どっちにも、なれない・・・中途半端は俺だ)
手の中に残った煙草をすっと唇に持って行ってから、柴田はそれを銜えずにゆっくり下ろした。メンソールの匂いがしない。
(真中さん、俺は、メンソールしか、吸えない)
知らない、真中はそんなことはきっと知らない、きっと興味がない。柴田は知っているのに、真中がつけている香水の匂いも、好きな服のブランドも、一番落ち着くコーヒーと砂糖の配分も、つけている時計の種類も、行きたがっている焼肉屋も、薬指の傷も、乗っている車の種類も、耳の近くのほくろも、憂い目をして誰を心配しているのかも、優しい眼差しで誰を見ているのかも。
「・・・―――!」
柴田は手に残ったそれを、思いっきり外に向かって投げ捨てた。軽い煙草はそんなに飛ばずに、ふわっと風に乗った後、ほとんど垂直に落下する。それに向かって叫びたかった、理不尽なことも胸に溜まったもやついた気持ちもどんどんぎずぎずしてしまう神経も全部、ぶつけるみたいにして叫びたかった。けれど柴田の頭は冷静で、いつだって常識的で真面目でそれが全部邪魔をして、そんなことすらできない。その大きな背中を抱きしめて好きだと囁くことなんて、このままでは一生出来やしない。
(真中さん、俺も、アンタから卒業したい)
(どうやったら、できるの)
それを問うことも出来ない。
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