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第12話

自宅マンションに帰って柴田は時計を見た。7時を差している。セーフ、心の中で思う。こんなに早く帰ったのは久しぶりだった。これから眠るまで一体何をして過ごせばいいのだろう。結局逢坂にあれこれ勝手に入れられて、多くなった荷物をテーブルの上に放った。コンビニの袋はテーブルの上を少し滑って止まる。それを見ながら柴田はひとつ溜め息を吐いた。部屋の中が綺麗になっている、ような気がした。元々寝に帰っているだけの部屋で、そんなに散らかることもないけれど、フローリングの床がつるつるしているのが、立っている柴田の視点からでも分かる。また余計なことをやって逢坂は帰って行ったに違いなかった。一人暮らしの逢坂は、何が楽しいのか分からないけれど、柴田の家に来るとご飯を必ず作り、部屋を掃除して帰って行く。まるで柴田の体を良いように弄んだ代償を、それで支払っているみたいだった。柴田は少し立ったまま考えて、袋の中から水とドリンクと勝手に入れられた野菜ジュースを取り出して冷蔵庫に入れようと、冷蔵庫を開けた。 (・・・あ、昨日の) そういえば帰り際に逢坂が言っていた。冷製スープとトマトのパスタだった。それを取り出してテーブルの上に置く。空いたスペースにドリンクやら何やらを突っ込んで、冷蔵庫の扉を閉める。余り食欲は沸かなかったが、折角逢坂が作ってくれたものだ、食べないと失礼だ、真面目にできている柴田は思う。だからどんなに逢坂に酷いことをされても、その後優しくされたら、ごめんと謝ることもありがとうとお礼を言うことも忘れない。それを一言真面目だからで片づけてしまって良いものなのか、柴田には判断できない。椅子を引いてそこに座る。コンビニの袋からお酒を出して、まずそれから口をつけた。柴田はビールが飲めないし、日本酒も焼酎も飲めない。飲めるのはこんな、グレープフルーツサワーみたいなほとんどジュースみたいな味の女の子が好きそうなお酒だけだ。ぼんやりお酒を飲みながら、柴田はゆっくり目を閉じた。ここでこうしてこのまま、眠ることだってできる。明日までの時間を何してもいいよと渡されても、柴田はそれを埋める方法を知らない。 (いただきます) 両手を合わせて、いつもの癖で、お箸でパスタを食べる。今日も美味しかった。次に会った時、逢坂にはちゃんと感想を言って、それからもう一回礼を言わなければ、柴田は考えながらまたお酒を飲む。逢坂が時々来るようになって、質素で簡素だった柴田の食生活に少しだけ彩りが増した。調理器具も勝手に増えた。食材だけは逢坂が持ってきて、置いておくと柴田は簡単に腐らせるから、日持ちしてすぐ食べられるものを除いて、逢坂が持って帰る。だから冷蔵庫にある見知らぬものは、きっとそのまま食べても大丈夫なものだ、柴田はそれを知っている。別に逢坂にそう言われたわけではなかったが。 永遠に氷川を思い続けるものだと思っていた真中が、突然事務所の不出来な新人を可愛がり初めて、暫く経つ。所員に聞くと真中さん日高のこと気に入ってるんですね、とにこにこしながら言うのだろう。しかし柴田はそれが単純に部下を可愛がる上司の図式では、最早なくなっていることを知っている。直接真中や日高に確かめたわけではないが、真中が日高にだけ見せる顔がただの上司の顔ではなくなっていることに、おそらく多分、一番に気付いていた。気付きたくはなかったけれど。傍目から見ていると、二人の様子は大きく変わらなかったが、時々、それこそ日高の体から真中と同じ香水がするみたいなことだったり、廊下の端っこで顔を寄せて話している姿だったりを事務所のあちこちで時々目にするようになって、ふたりがふたりとも幸せそうに笑えば笑うほど、柴田は胸の奥がキリキリ痛むのを堪えることが出来なくなっていた。奥歯を噛んで、自分のスケジュールを縛りはじめたのも、おそらくその頃だったのではないかと思う。 逢坂はというと、柴田の自宅マンションの近くにある一軒しかないコンビニのアルバイトの店員だった。今も彼はそこで働いている。柴田は家に帰る前にそのコンビニに立ち寄ることが多くて、大学生である逢坂は柴田がいつコンビニに行っても大体働いていた。柴田にとっては、逢坂はコンビニの店員でしかなかったが、逢坂の方はどうやらそうではなかったらしく、何度か顔を見るようになって、何故か柴田さん柴田さんと懐いてきた。名前を教えた覚えはないし、いつ分かったのだろうと思ったが、それを逢坂に今日まで問うたことはない。事務所で感じる後ろ暗い感情を引き摺って帰るのが、何となく柴田は嫌だったので、懐いてくる何も知らない年下の若い男と、話すことを少し気分転換みたいに感じていた。 「いらっしゃいませー・・・あ、柴田さん」 「こんばんは、逢坂くん」 はじめの頃、柴田は逢坂のことを苗字で呼んでいた。柴田の名前をどうして彼が知っていたのか知らないが、逢坂の名前は制服にネームプレートがついているのですぐに分かった。逢坂は毎日シフトを入れているのではないかと思うほど、柴田がいつ行っても大体働いていて、柴田はその頃、彼の無邪気な笑顔に、おそらく単純に簡単に癒されていたのだと思う。 「あ、籠持つ」 「いいよ、そんなことしてくれなくて」 住宅街に一軒しかないコンビニは、夜になっても若者が集まったりすることがなくて、いつ行っても大体がらんとしていて店員は暇そうにしていた。多分逢坂も暇だったのだろうと思う、それを彼に確認したことはないが。逢坂の髪の毛は根元から金色で、長いそれを彼は女の子みたいに後ろで一つに縛って纏めていた。柴田は逢坂の背中を見ながら、彼の持っているそういうひとつひとつのことが、自分とは関係のない世界で起こっている出来事みたいで面白いと思った。毎日暇を持て余すように仕事をしている逢坂は、何故か柴田が来ると嬉しそうにして、やっている仕事を放り出して色々と話をしてくれた。 「柴田さんちゃんとご飯食べてる?」 「昨日は食べたよ。逢坂くんが美味しかったって言ってたプリン」 「それご飯じゃないよ、それしか食べてないの?」 「あと酒飲んで寝た」 「青リンゴの、美味しかった?」 「うん」 柴田の籠を持った逢坂は、ドリンクの冷蔵庫を開けるとそこから柴田がいつも買っているミネラルウォーターを出して2本籠に入れる。毎回それを買うから、逢坂はその種類も本数も覚えてしまっている。柴田はそれを黙って後ろから眺めていた。 「お酒飲む?」 「うん、グレープフルーツ」 「それ好きだね、柴田さん」 「俺、ビールとか飲めないから」 「知ってる、酎ハイだっていつも1本だけ」 笑って逢坂は、柴田が好きなお酒を籠の中に入れる。 「プリンね、新しいのが出たの。マンゴーのやつ。俺も食べたけどちょっと甘すぎる気がしたなー、でも柴田さんは好きかも」 「じゃあそれ」 「また今日もそれだけ食って寝るの?おにぎりとか食べたら」 「あー・・・夜あんま食欲ないんだよね」 そう言えばその頃から何かと、逢坂は柴田の食生活が気になるらしかった。毎日のようにコンビニに来ている癖に、お弁当やらパンやらは買わずに、酒とデザートみたいなものしか買わない柴田のことを、逢坂はただ純粋に心配しているようだった。誰かのことを心配こそしても、誰かに心配されるという経験のない柴田は、逢坂が眉を顰めて時々自分にそういうことを言うのを、本当は何処かで嬉しく思っていた。多分この店員は自分のことが好きなのだろうと、柴田は誰に言うわけでもなく密かに思っていた。その好きがどういう種類の好きになるのか分からないが、誰かに好意を寄せられるということは決して気分の悪いことではなかった。だから事務所で真中に傷を抉られた日は、用事がなくても逢坂に会いに来るみたいに、コンビニに足を運んでいたのかもしれない。抉られたところを撫でて欲しくて、そんなことをしても無意味だと分かっていたけれど。

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