15 / 36

第15話

「馬鹿なの、柴田さんって」 先程まで無邪気に笑っていた男が、馬乗りになって見降ろしてくる。その唇には冷笑すら浮かんでいる。 「もうちょっと頭良いんだと思ってた」 「何言ってんだ、退けよ」 「退かない、今時あんな言葉じゃ女の子でも部屋にあげてくれないよ、ほんとちょろくて助かる」 「・・・お前」 「別にいいんでしょ、柴田さん俺がやりたいって思ってたの知ってたんでしょ。知ってて食事に誘って部屋まで入れて、それなのに駄目はないでしょ」 ふっと逢坂が笑う。勝ち誇ったように笑う。それはもう柴田が良く知っている無邪気な逢坂の笑みではなかった。確かに逢坂の感情の名前は、柴田が真中に向けているそれとは違ったのかもしれない、今この現状だけ見ると多分そうなのだろう。けれど柴田の推察は残念ながら、そこまでしか当たっていなかったのだ。気持ち悪いからちょっと横になりたい、と逢坂は酷く真面目な顔をしていい、柴田はそれを真に受け、自分のマンションまで案内した。ただのコンビニ店員だった逢坂が、部屋に来るなんて不思議なこともあるものだと考えながら、振り返ったところで景色が暗転して今に至る。柴田にはオレンジがかった照明が、煌々と照りつけているのがやけにはっきり見える。自分の体に馬乗りになった男は、馬鹿なのと言って柴田のことを笑った。 「・・・そうだな」 「え、納得しちゃうの?」 「逢坂くんが何となく、俺のこと好きなんじゃないかっていうのは、確かに気付いてた。俺もそれに、甘えようとしてたし」 「・・・―――」 「だから自業自得だ、お前の言うとおりだよ」 どんな顔をしていいのか分からず、柴田は顔を手で覆った。眼鏡が顔に当たって痛い。痛いけれど他にどうしたらいいのか分からない。手首を取られた。逢坂だ、当たり前だ、この部屋にはふたりしかいない。しかしそれは先程信じられないくらい強い力で柴田を床に押し倒した逢坂の手のひらとは、別人みたいな優しい動作だった。左手が柴田の顔から引き剥がされて、柴田は左半分の視界でオレンジ色の光を浴びる。冷笑を浮かべて自分を見下ろしていた男は、何故か少し困ったような顔をして柴田のことを見ている。 「柴田さんって、馬鹿で真面目だね」 「・・・うるさい」 「いいじゃん、別にそんなことどうでも。気持ち良かったらそれで良くない?」 「それじゃ猿だ」 ふふっと逢坂は声を出して笑い、柴田の左手から時計を外して廊下に投げた。カシャンと音がしてすぐ傍にそれが落ちる音がする。焼肉屋で確か逢坂はそれが綺麗だと言って笑っていた、先程までは確かにそうして笑っていた。同じように手を取って、逢坂は笑うと柴田の痩せた手首をべろりと舐めた。床にぴったり張り付いた背筋がぞくっと波打つのが分かる。 「このままする?ベッド行く?」 「・・・、ベッド」 柴田が答えると逢坂は笑って頷いた。 自分の部屋のベッドの上に寝転がって、柴田は天井を見ていた。眼鏡を外すと視界が歪んでぼんやりとしか輪郭が浮かばない。柴田の過ごしていた日常ではまず起こり得ないことが立て続けに起こって、混乱していた。このまま目を瞑ってそのまま眠ることが出来たら、そしたら目を開けたらまた日常が戻ってきそうで、そのほうがいいのかどうか、柴田はそれも考えものだと思っている。胸の傷は放っておくとじくじく痛んで、時々痛くて眠れないことすらある。もう色々限界だったけれど、それをどうにかする術を柴田はひとつも知らなかった。だってそんなにこんなどうにもならない感情に振り回されたことなんて、今まで一度もなかったのだから。両手で顔を覆って、柴田はひとつ大きく息を吐いた。もう何が正解なのか分からない。 「後悔してるの」 「・・・逢坂」 すぐ近くで声がして、手を顔から剥がすといつの間にかバスルームから出てきたらしい逢坂が、上半身裸でこちらを見下ろしていた。目が合うとにこっと微笑む。コンビニの白い蛍光灯の下で見ていた笑顔が、薄闇に溶けているのが不思議だった。 「そんな顔するくらいなら、同情で俺になんか抱かれなきゃいいのに」 「・・・やめろ、同情なんかじゃない」 何も知らない無邪気な大学生が笑ってくれるから、柴田の日常はそれでも回っていたのに。柴田はベッドから起き上がって、半裸の逢坂の隣を通り過ぎようとした。擦れ違いざま腕を掴まれてベッドに引き戻される。相変わらず強い力だった。 「なに」 「柴田さんはそのまんまで良いよ」 「いやだ、なんで」 「別に、俺がその方が興奮するから」 にこっと微笑まれて、柴田はそれに何を言ったらいいのか分からなくなった。思案している暇はない。そのまま逢坂に口を塞がれてベッドに倒される。不思議だった、逢坂の唇が濡れている、濡れて光っている。そんなひとつひとつのことを、柴田はそれでもまだ信じられなかった。 「柴田さん、下の名前教えて」 「下の名前?・・・そんなの聞いてどうする・・・」 「どうするって呼びたいから、教えてよ」 腕上げてと言われて渋々上げると、Tシャツが引き抜かれる。逢坂は柴田の手を取ると、廊下でさっきやったように手首にキスをした。 「案外ロマンチストなんだな、お前」 「閑」 「え?」 「閑、俺の名前。柴田さんは俺のことはしずかって呼んで」 「・・・しずか」 「そ」 言いながら笑って、逢坂は握った柴田の指を一本一本開かせると、指の股から爪にかけてゆっくりゆっくり舐めた。背中がぞくぞくする。何かとんでもなく悪いことをしているみたいだった。それが悪寒なのか、逢坂の言うところの興奮によるものなのか、柴田には分からない。逢坂はゆっくり舐めながら柴田に視線を合わせて、ふふっと笑った。吐息が濡れた指先にかかって、また背筋が脈打つ。 「侑史」 薄闇で逢坂の目が光る。

ともだちにシェアしよう!