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第20話

また天井。良く知っている部屋の中、冷たい外気が柴田の熱い頬を何度もゆっくり撫でるけれど、心底茹だった熱い部分はなかなかそれでは冷まされないようで、もう目を覆って眠ってしまいたかった。体の芯が酷く重くて、疲労以上の何かが自分の中に浸食して増加している気配がする、と思った。両手を上げてそれでゆっくり顔を覆う。誰かの笑う気配。 「またしようね」 「・・・」 「侑史くん結構体平気そうだから、色んなこと出来ると思う」 「・・・うるさい、お前」 左手だけ顔から剥がして睨みつけると、逢坂は柴田の方は見ていなかったが、人の良さそうな顔をしてにこにこ笑っていた。そして自棄に手慣れた動作で、柴田の腹に散った精液をティッシュで綺麗に拭っている。何となく気恥ずかしくなって自分相手にそんなことをするのは止めて欲しいと思ったが、その腕を掴んで止めさせる元気もない。今何時頃なのだろう、柴田は逢坂の横顔を見ながら考えた。体は起き上がることが出来ないくらいに疲労していたが、どれくらい逢坂に馬鹿みたいに抱き付いていたのか分からない。まぁ明日は休みなのだから心配することはない、と思う一方で、柴田はそういう感覚から切り離されて不安になる。壁の時計は眼鏡のない柴田の視力ではぼんやりとしか見えず、役に立たない。ふうと小さく息を吐く。隣でベッドに腰掛けたままの逢坂が、丸めたティッシュを部屋の端のゴミ箱へ向かって投げるのが見えた。 「俺のこと、セフレにしてよ、侑史くん」 「・・・は」 覆っていた手のひらを退ける。逢坂は此方を見ていなかった。薄闇に半分以上解けた表情からは、柴田には意図が読み取れない。動かない上半身を手だけで起こして、逢坂の目線と合うようにしても、逢坂は依然遠くを見ており、此方に目線はくれない。 「甘えようとしてたって、言ったでしょ。だったらいいよ、甘えて、俺のことセフレでもなんでも都合の良い男にしてくれていいから」 「・・・なんだよ、それ」 「恋人がいる?それとも好きな人が」 「・・・―――」 俯いて呟く。逢坂の横顔が急に滲んで柴田は焦った。目が痛い、沁みる、と思ってからでは遅かった。ぽろりと涙が零れて、洪水を起こすのに時間はかからなかった。涙が出てきて人前でこんなふうに涙を流したのは、酷く久しぶりだった。逢坂が驚いたようにやっとこちらを見て、それから眉尻を下げて仕方なさそうに笑った。俯いた柴田の頭を、そして幼い子どもを慰めるようにぽんぽんと撫でる。それに真中の動作を思い出して、柴田はまた一層涙が溢れるのを止められなかった。 「・・・なんで」 「見てれば分かる、なんとなく」 「・・・はは、まなか、さんは、全然、気付かないのに」 「まなかさんっていうの」 こくりとそれに頷く。何故逢坂にこんな話をしているのか、不思議だった。けれど言葉が勝手にぽろぽろと唇から零れて、本当はこんな抱えていてもどうしようもならない気持ちのことを、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない、と柴田は思っていた。ひとりで抱えるのは限界だった。真中が優しい目をするたびに心が痛んで、日高が良く知った匂いをさせるたびに窮屈になって、それでも知らないふりをして二人の前で気丈に振る舞うのにそろそろ自分でも限界なのは分かっていた。こんな風に真中のことをそれこそ誰かを愛するみたいに思っていること自体、上手く受け入れることができないでいるのに、現実は柴田の気持ちや体裁など汲んでくれずにただひたすらに残酷だった。それは殆ど見知らぬ男に体を暴かれているのに、少しの安っぽい薄っぺらい言葉で泣いてしまうくらいには、柴田には救いが圧倒的に足りなかった。 「でも、こんなの、無駄なんだ、まなかさんは、俺のことは好きにはならない、絶対に」 「なんで、そんなの分かんないじゃん」 「分かるよ、それこそ、見てれば分かるんだ」 まだ濡れた目を擦って、それでも柴田の声色は自棄にはっきりしていた。真中が自分のことを選ばないのは分かっていた。真中は柴田のような、自分で自分のことがある程度コントロールできる人間相手に、そんな気持ちを育たせることはしない。だから氷川了以だったのだ、ずっと長い間。それと日高は別物だと真中は言ったし、その意味を柴田はよく分かっているつもりだったが、それでもまだ自分は真中の思いからは遥か遠くに立っていると思う。けれどそれを詰めて真中に媚びることも出来ない。柴田には自分の立場があり勿論プライドもある。そして真中の前で良く出来る部下で居なければならないという使命感もある。色んなものが邪魔だ、真中に辿り着くために捨てなければならないものの大きさに、柴田は飽き飽きしてうんざりしている。だから半分諦めているのと同じことだった。逢坂は柴田の頭をぽんぽんと撫でて、顔を近づけてその頬をぺろりと舐めた。 「へへ、しょっぱい」 「・・・なんだよ」 「じゃあきっと、まなかさんは侑史くんの運命のひとじゃないんだよ」 「なんだよ、それ」 「きっとどっかに侑史くんを一番大事にしてくれるひとがいるから」 そう言うと逢坂は横から柴田のことをぎゅっと抱きしめた。まだ自分の体は熱くて敵わないのに、やっぱり逢坂の手のひらは少し冷たくて、それが少し心地良かった。 「それまで俺が一緒にいてあげるね」 「・・・何なんだ、お前はホントに」 呆れて柴田が溜め息を吐くと、逢坂が後ろから柴田のまだ濡れたままの頬にキスをした。 「しょっぱい」 「・・・だろうな」 「俺、好きな子の体液はみーんな好きだけど、涙だけはやっぱり嫌だな」 「きもちわる・・・」 ひっそりと笑うとひくりと肩が動いて、それが腕を回したままの逢坂に当たる。何故かその時逢坂は、柴田のことを見ながら酷く満足そうな表情を浮かべていた。何故だろう。その時の柴田は珍しく自分のことで手いっぱいだったのでそれを疑問に思うことも思案することもしなかった。だから逢坂はそんな顔をしていたのかもしれない。その真意は今となってはもう伺いすることが出来ない事実のひとつになっている。もう一度顔を近づけて、逢坂は柴田の目尻に唇を寄せた。そこに残る涙の気配をそうしてそっと唇で拭うようにすると、その茶色い目を互いの吐息さえ聞こえてきそうな近距離で覗き込む。 「いっしょにおふろはいろ」 「・・・いやだ、ひとりで入れよ」 「いっしょにはいってもっかいしよ」 「はぁ?もうむり、寝る」 眉間に皺を寄せて答えると、逢坂は何故か酷く嬉しそうに笑った。 それから逢坂は時々柴田の家に来るようになった。なんて名前で呼んだらいいか分からない彼との関係を、柴田は生まれ持った真面目さで拒絶したい気持ちでいっぱいだったが、いざ逢坂を目の前にすると何も言えないのが常だった。お互いに見返りのない体の関係が、本当のところはどこかで柴田の救いになっていたし、何にも考えなくていい時間を、柴田は欲していたのかもしれなかった。

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